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2011年中年日記はあらたなるステージに。 |
定年までの残り時間を意識しつつ何を「天命」として仕事が出来るのか。 |
元気なく、しがない中世文学研究者の日々のぼやきの世界です。御用とお急ぎのない方はぜひお立ち寄りください。 |
2012年12月31日 フェイスブックやツイッターの更新が多くなり、めっきり投稿数減ってしまいましたが講義録・イヤホンガイド原稿等は来年もここに揚げて行きます。本年は大変お世話になりありがとうございました。明年もよろしくお願いいたします。来年が良い年でありますよう。
2012年11月18日
昨日の野村峰山先生の現代邦楽五番立のプレトークの対談に準備した原稿です。事前に言われていたのにプレトークの時間一時半からと勘違いして控室でお菓子食べていてあわてて行ったりとか。。昨日もバグがさく裂していましたが、時間には間に合いました。実際には原稿の半分くらいしか話せませんでしたがそれは「現場の処理」。息子からは「全部わかった」と言われましたから中学生にわかる解説にはなっていたと信じたいです。昨日の催しとっても楽しかったです。能楽堂は「小劇場」。こういう催しも名古屋能楽堂で積極的に行ってほしいです。
(問)舞台には四本の柱がありますが、重要なのでしょうか。(答)能舞台の柱は向かって右奥の柱が笛柱、左奥の柱がシテ柱、右前の柱が脇柱、左前の柱が目付柱と呼び方が決まっています。江戸時代より前の時代には橋掛かりが舞台に向かって右から伸びている舞台もあったようですが、江戸時代の初期に今の能舞台の形式、つまり橋掛かりが左に斜めにつく形にほぼ決まります。室町時代末の千五百年代以降は、上演される演目が固定化されて、新しく作ることは少なく、基本的に同じ曲の再演となりました。そして江戸時代になり、能楽師が旅芸人の移動劇団として諸国を公演旅行して生活していた時代から、一つの場所に住んで土地の人に教えて授業料で生活して行く時代になると、舞台や装束・能面の形でも名前でも基準となる「規格品」があった方が「教えやすく」なったのです。そして演目によって所作は違いますが、バックコーラスや囃子方・相手役の僧など動かない役は、座っている場所が決まっていた方が混乱がない。習う方も同じ流儀でも言うことが先生によって違うよりも、同じ方が「覚えやすい」ですよね。舞台の位置なども「あそこ」というよりも「笛柱前」と言った方が覚えやすい。ですから笛が座るところに近い柱を笛柱、橋掛かりから主役であるシテが舞台に入り、最初に謡う場所を常座(じょうざ)といいますが、その時のシテの場所に近い柱をシテ柱、そして主役の話や所作を引き出す相手役であるワキが座る場所のそばの柱をワキ柱と呼ぶようになったのです。これで四本の柱のうち三本までは、その役の人がいる場所のそばの柱ということで説明がつくのですが、正面左側の観客から見て一番見づらくて邪魔な柱、これを「目付柱」と言います。能では居グセや居語(いがたり)といって、主人公のシテが舞台の上に座り、十五分くらいシテもしくは地謡というバックコーラスが謡うときがあります。これは主人公や地謡の「聞かせどころ」なのですが、主人公も微妙に座る向きを変えたり、面の角度を変えたり「演技」をしているのです。この目付柱の陰の席に座ったりすると十五分間主人公の声は聞こえるけれど姿が見えず、相手役の僧侶と共に夢の国に落ちて行くこともあるのですね。なぜこんな邪魔な柱があるのか。こんな邪魔な柱ならば切ってしまえばよいのに、どの能楽堂にもあるのは、この柱がまさに「目付」、面をつけた、能では「おめん」ではなく「おもて」、「おもて」をつけるといいますが、主役が舞台での自分の位置を知る目当てとなる柱だからです。能楽堂から展示室に向かう廊下に、実物と同じ大きさ・重さで作成した展示用のウレタン製の能面があります。ぜひ手に取って顔に当てて頂ければと思うのですが、女面を顔に当てた時、見える範囲が非常に狭いことに気が付かれると思います。前がよく見えない状態で前に向かって歩むのには非常に勇気が必要です。能面をつけたまま下を向くと非常に格好が悪いというか、落ち込んだように見えますので、まっすぐ正面を見て歩く必要があります。能では歩くことを「運ぶ」といいますが、面をつけると前方で見えるのはこの目付柱しかないのですね。ですから目付柱の見えている方向で自分の位置を知るのです。僕も十五歳で能が好きになって、毎年五十番以上観る生活を続けて三十六年になりますので、この能楽堂ではありませんが舞台から面をつけた主役が落ちてしまったのをみたことがあります。平然と扇を拾い、面・装束を直して、舞台に付いている階段、階(きざはし)と呼びますが、そこからそれも演技であるかのように上って舞い続けました・・・。素人の方ですがそれはそれで見事でした。ちなみにこの階は室町時代、将軍が役者にご褒美として装束を与えるときに、ここから係の侍が服を持って上がったのです。舞台から落ちた役者が這い上がるためのものではありません。
(問)舞台は前方の方に傾斜がありますが、その意味は。(答)能舞台で前方に傾斜がつくようになったのがいつのころからは不勉強で僕は知りません。現存の舞台には僕が知る限り、すべて前方に少し傾斜があります。能の関係者は「撥ころがし」といいますが、これは太鼓の撥を舞台に置くと前方に転がって行くものですから、このように呼ぶと聞いています。理由はなぜかわかりません。ただ、正面で観る立場で言うと、傾斜があるおかげで役者の姿が完全に重なって後ろの役者が見えないということはないので役に立っていると思います。僕は学校公演なども見学に行かせて頂くことがあるのですが、中学校の体育館など傾斜のない舞台で能や狂言をやると、たまに舞台上の人が完全に重なって後ろの人が見えなくなることがあります。舞台前方に向かって傾斜がついているのは、「その方が観客に見やすい」という現実的なことからの工夫だと思います。
(問)舞台で演ずるのは「現世でのお話し」、橋掛かりでは「あの世」というような決まりがあるのでしょうか。(答)能で現在、各流儀に伝承されて演じられている曲、これを現行曲と呼びます。昭和以後に作られた新作能を入れるか入れないかなど数え方によって違いますが、観世・宝生・金春・金剛・喜多の五流のいずれかで現行曲になっているものを全部合わせると、だいたい二百五十番ほどあります。能は一番、二番と数えます。能の分類に現在能と夢幻能という分け方があります。現在能というのは舞台上の時間が「現在」で、観客は「今目の前で起こっている現実」を舞台で見ているという設定の能です。それに対して「夢幻能」というのは。。僕は大学では「夢ネタ」の能だよと教えているのですが。一曲が終わった時、今までのことはすべて相手役のお坊さんの夢の中の出来事だったという形です。俗にいう「夢ネタ」です。これは「幽霊」を見たとか「鬼が出た」とかの「非合理的な設定」であっても「夢の中だから」という形で、観客に違和感なく伝えることが出来ます。「夢幻能」は能特有の、というか能が作り出した演劇の形式であり、上演曲も上演回数も多いです。この形式の能の主人公は夢の中に出て来る神・仏・幽霊・鬼などですが、幕の向こうのあの世の世界から、「夢うつつ」の橋掛りを通って夢の中の世界という現実である舞台にやってきますので、夢幻能ならば幕の中があの世、橋掛りが中間、舞台が現世というような区切りはあると思います。現在能ならばどこもすべて「現在」です。能において主人公などが登場する時の囃子は、その性格付けのために非常に重要です。笛は唯一の旋律楽器なのですが、特に淋しい場所に僧侶がやってきたことを表現する時には、笛のみで「名乗り笛」という曲を演奏します。特に孤独で暗い気分の深刻な幽霊が退場する時は笛一本で「送り込み」という曲を演奏します。僕は性格暗いので携帯の待ち受けの曲を送り込みにしたいのですが、携帯の設定方法が分からなくてできないでいます。講義に行くとよく留学生さんに「飯塚先生が『来た』、じゃなくて『出た』」と言われますので、教室にも橋掛かりが欲しいなと思っています
2012年10月28日 26日の「枕慈童」のイヤホンガイド原稿上げさせて頂きます。
自分が読んだイヤホンガイド原稿を思いだせる限り忠実に上げておきます。バグだらけの人生を送っておりますが、これも参考にした下さる方があれば幸いです。昨日は満席にはなりませんでした。夜公演は年配の方が少ないので。その代わり会社員や公務員といった雰囲気の方多かったです。留学生さんも何人もいました。その意味で意味ある催しだったと思います。
笛、小鼓、大鼓、太鼓の囃子方が楽器の調子を調えるお調べが聞こえてきました。まもなく開演となります。最初に、物語の筋を述べたいと思います。古代中国の魏の文帝に仕える家来が登場します。皇帝から、てつけん山の麓から薬の水が湧いたので、その源流を見て来るよう命令されたので、これからてつけん山に向かうと言います。皇帝の家来がてつけん山につくと、そこに不思議な子供がいます。子供の姿なのですが、周の穆王の召使だったと言うのです。つまり七百年前から生きていて、しかも年を取っていない。魏の文帝の家来はなぜ七百年も年を取らないのか不思議に思います。するとその子供は、周の穆王から頂いた枕に書かれていた法華経の言葉を菊の葉に書き付けておいたところ、その葉から滴る露が薬の水となり、それを飲んで不老不死の仙人の身となったと述べます。そしてその不老不死の薬である菊水を汲んで勅使にも勧め、長寿を帝に捧げて、深い山の中に消えて行きます。
幕を片方のみ上げて、囃子方が登場致します。笛・大野誠(おおのまこと)、小鼓・後藤孝一郎(ごとうこういちろう)、大鼓・河村眞之介(かわむらしんのすけ)、太鼓・加藤洋輝(かとうひろき)の各師となります。舞台向かって右側の切戸口から、この曲のコーラスを勤める地謡方のメンバーが登場します。コーラスのリーダーは、地頭(じがしら)と呼ばれます。本日の地頭は後列中央の松井彬(まついあきら)師が勤めます。
後見が菊を飾った台を出します。この台は畳一畳分の大きさなので一畳台と呼ばれます。この菊の露が不老不死の薬の水となるのです。一畳台の上に枕が置かれますが、この枕には法華経の偈、すなわち仏の教えが書かれているということになっています。続いて、「塚」の作り物が台の上に置かれます。喜多流は粗末な家を表す「藁屋」ではなく、「塚」で演じます。
次第の囃子で、魏の文帝の家来が同行の家来と共に登場します。文帝の家来を飯冨雅介(いいとみただすけ)、同行の家来を椙元正樹(すぎもとまさき)が勤めます。文帝の家来は、洞烏帽子、紺地袷狩衣・白大口・腰帯・扇の装束、この姿を洞烏帽子狩衣大口出立(洞烏帽子かりぎぬおおくちいでたち)と言い、身分の高い家来の旅姿を表現します。同行の家来も同じ出立ですが赤地の狩衣です。ともに身分の高い家来の旅の姿を表現しています。
(山より山の奥までも) 都はもちろん山奥にまで道が通じた、政治の正しい世の中であることだよ。
(そもそもこれは魏の文帝に) 魏の文帝の家来は、てつけん山の麓から薬の水が湧き出たので、その源流を見て来るようにという皇帝の命令を受けたので、てつけん山に向かっていると述べます。
てつけんざんについた皇帝の家来たちは、様子をみようと言います。
(それ邯鄲の枕の夢) 昔話で聞いている邯鄲の枕で見ることが出来る夢というのは、ご飯を炊く間のわずかな時間に百年の間の楽しみを経験したという夢だと聞いているが、自分の枕は邯鄲の枕ではなく、昔の楽しかった日々を思いながら寝ているために、夢を見るどころか目を閉じてきちんと寝ることもできないのは悲しいことだ。
本曲のシテ、主人公の子供の姿の仙人、慈童です。喜多流シテ方の長田驍(おさだ・たけし)師が勤めます。慈童は深い山の中で枕と共に一人で寝る孤独な身を悲しんでいます。
(夢もなし。いつ楽を松が根の) 夢を見ることもなく、いつ楽しむことが出来るだろうかと待っているが、その日は「嵐(あらし)」という字のようにあるはずもなく、強い風「あらし」のなか仮眠して、夜通しこの孤独な身を嘆いて泣くから涙にぬれて袖が乾くことがない。私に頼みに思わせたその効果もないことだ。一人孤独に寝る枕に書かれた言葉こそ、怨みに思われることだ。
(不思議やな此の山は) 家来は一人嘆いている少年、慈童を見て不思議に思い声をかけます。この山は人間が来ないところで恐ろしい虎や狼の住みかなのに、現れた姿は人のようだから、たぶん化け物であろう。だれなのか名前を名乗りなさい。
(人倫通はぬ處ならば) 慈童は、ここが人が来ない場所だというならば、あなたこそ化け物ということになるでしょうと反論します。そして自分は周の穆王に召し使われていた子供だったのだと言います。
(これは不思議の言ひ事かな) 家来は、不思議なことを言うものだ。本当とは思えない。今は穆王の時代から七百年経っているから、天人は知らないが人間でそれだけ生きているものはいないだろう。きっとあなたは化け物なのだろうと怪しみます。
(いやなほも其方こそ) 慈童は、それでもあなたの方が化け物だと反論します。「私は非常に恐れ多いことに、穆王が二句の仏の教えを書いた枕を頂いたのです。」と言い、この枕の文のおかげで自分は不老不死なのだと、家来に枕を見るように勧めます。
(これは不思議の事なりと) これは不思議な事だと、家来たちが立ち寄ってみると、枕に「あらゆる功徳を具え、慈(いつく)しみの眼ですべての人間を常に視守って下さる、その福徳が大海の如く無量である、観世音菩薩を礼拝すべし」と観音の力を称える言葉が書かれています。
(此の妙文を菊の葉に) 子供は、この尊い言葉を菊の葉に書くと、その菊の葉から滴る露が不老不死の薬となって七百年を過ごしたのだと言います。
(それ妙文何れに於て) 考えてみると仏の言葉はどれも深い意味をもっているが、特に「観音の福徳は大海の如く無量である、それ故に礼拝すべし」という言葉は尊い経文だ。
(それ諸仏出世の本懐は) 仏がこの人間の世に現れる本来の目的は、世の人を悟りに導こうと願う心にあるという。
(ましてや本より誠有る) まして観音が、本当にこの世の人々を救おうという志から出た、この悟りの種のような経文は、短い二句だが法華経全体と同じほどの大きな力があるのだ。
(この深谷の菊の露) この山深い谷の菊の葉に置いた菊の露が
(妙なる御法を受けて) 法華経の力を得て、大きな川に下り、不老不死の薬となったのだ。
(身を浸したる菊水の) 身を浸した菊の水が、年による衰えを防ぐのだろう。
(然るに穆王は) ところで穆王は、八匹の馬に乗られて、仏法を求め、釈迦が説法されている霊山の法会に出席して、釈迦の説教を真剣に聞いていた夜に、
(仏問うて宣はく) 釈迦が穆王におっしゃったことには、あなたはどこの国のどのような境遇の人なのでこの法会に来られたのかとお尋ねになったので
(穆王答へて) 穆王が答えておっしゃったことには、私は中国の国王です。願いとして、釈迦如来は生まれる前の世・この世・死んだ後に生まれる世の三世にわかる覚りを開く母であり、その説かれる仏法はとても奥深いですから、同じ教えて下さるならば、国を治める法を教えて下さいと頭を下げてお願いした。
(然れば一天の皇子とて) このような穆王と釈迦との関係があったので、皇太子誕生の時には、大臣が宮殿に参上して、この経文を皇帝に授けなさるとか。
(されば詔も) ですから皇帝のご命令も皇帝の位も末永く続くと「聞く」という名の「菊」の花に法華経の文と功徳を移し、その菊の花の露と苔の滴が積もって長い年月の間に
(淵とも成るや) 深い淵となるのだ。この薬の水を汲んで飲む人も、飲まない人もこの穆王の書いてくださった佛の教えにより、観音を信じて千年も長生きすることだろう。
(谷水花を洗う) 谷の水が菊の花を洗っている。その下流の水は薬の水で、汲むと素晴らしい香りがして、心が空を飛ぶようにうきうきとすることだ。
(面白の遊舞やな) ああ面白い音楽と舞であることだよ。
慈童は藁屋を出て「楽」を舞います。この舞は、主人公が中国人である場合にのみ舞われます。ここで主人公の装束について解説させて頂きます。面は「慈童」、黒頭・紅入厚板・半切と唐織壺折・菊葉団扇(このように読みましたが実際は唐団扇でした)の装束で「慈童出立」と呼びます。
(ありがたの妙文やな) 慈童は舞終えて、穆王が枕に書いて下さった経文を称えます。ああ素晴らしい、観音の「世を救おう」というお言葉よ。
(すなはち此文) このお言葉が菊の葉の表に全て書かれている。だからだろう、菊の葉にたまった滴も良い香りがして、それがたまって深い淵となるのだ。谷の水は、ここてつけん山の山の水、菊の水の流れなのだ。
(泉はもとより酒なれば) この泉は酒であるから、水を汲んでは人に勧め、また人に差し上げて、自分も思うままに飲むのだ。月はまだ宵の間なのだが、慈童の身も酔ってしまったため、足元がよろよろとして、水の上をただようように枕の場所に来て、枕を取り上げて
(戴き奉り) 頭の上に上げて礼をして、まったくありがたい皇帝の徳であると、山の岩に生えている菊を。手折り伏せて袖を枕とし、花をじゅうたんのようにして寝てしまった。
(本より薬の酒なれば) この泉はもともと薬の酒であるから、酔いで体を悪くすることもなく、姿も変わることなく七百歳を保ったのも。此御枕のおかげなので、
(いかにも久しく) 寿命がながく千年も長生きする帝、万歳も生きる我が君でありますようにと、帝の長寿を祈る慈童の七百歳の寿命を、我が君に捧げ、
(所はてつけんの) 場所はてつけんの。山の菊の水を汲みなさい、掬いなさい、飲んでも飲んでもなくなることはありませんと。
(菊かき分けて) 菊をかき分けて。山の中の仙人の家に。そのまま慈童は帰って行った。
慈童がなおも長生きするであろうことを予感させて、この曲は終曲を迎えます。
本日のイヤホンガイドは椙山女学園大学の飯塚が勤めさせて頂きました。ご清聴ありがとうございました。
2012年1014日 今日は久田観正能のイヤホンガイドをさせていただきました。
2012年10月14日久田観正会《屋島》イヤホ
ンガイド原稿
実際には読み切れず、かなり飛ばしてしまいました
。録音してありますので、無音部分の削除など編集
が出来たら自分のホームページで公開したいです。
子供達にはシテ方中心主義の解説と言われました。
囃子と狂言勉強しなさいと。。国語教師としての僕
の限界が見えていると思いますが、よろしくご教示
下さい。
笛、小鼓、大鼓、太鼓の囃子方が楽器の調子を調え
るお調べが聞こえて参りました。まもなく開演とな
ります。
最初に簡単に物語のあらすじを述べておきたいと思
います。最初に都出身の僧が登場し、西国を巡って
修行する旅の僧侶がお供の僧侶と共に登場し、旅の
途中、讃岐国、今の香川県の屋島の浦に着いたこと
を述べます。日が暮れかけたので、旅の僧は、海岸
の塩を作るための作業小屋、塩屋に泊まろうと思い
、帰ってきた老人の漁師と若い漁師に頼みます。老
人の漁師は最初断りますが、僧侶が都のものと聞い
て同情し、泊める事にします。僧侶の求めにより、
老人はこの屋島で昔あった源氏と平家の戦いの有様
を話します。僧侶は老人が屋島の戦いについてあま
りに詳しいので不思議に思い、名を尋ねると、老人
は自分が義経の幽霊であることをほのめかして姿を
消します。そこに本物の塩屋の持ち主が現れます。
この役はアイといい狂言方がつとめます。僧侶は地
元のその人に屋島の戦いで那須与市が扇の的を射た
話を語るように所望し、彼は所作を交えて那須与市
が扇の的を見事に射落とした話をします。先ほどの
老人が義経の幽霊であることを確信した僧侶が義経
にお経を上げていると、僧の夢に、今度は甲冑を身
に付けた義経の幽霊が登場します。義経は武人とし
てはきゃしゃな自分の弓を敵に取られないよう、流
されていった弓を命がけで追いかけて拾い上げた「
弓流し」の有様を再現します。そして敵への怒りの
ために悟りを開いて成仏できない義経は、死後の世
界、修羅道で今も生前の敵である能登守と激しく戦
っている様子を見せます。しかし夜が明けて見ると
浦風が吹いているのみですべては僧侶の夢の中のあ
つたという内容になります。
幕を片方のみ開けて、囃子方が登場致します。笛、
鹿取希世(かとりきよ)、小鼓、林吉兵衛(はやしきち
べえ)、大鼓(河村総一郎)の各師となります。舞台向
かって右側の切戸口より、本曲のコーラスを担当す
る地謡方が登場致します。本曲の地謡のリーダー地
頭(じがしら)を藤井徳三(ふじいとくぞう)が勤めま
す。
次第の囃子で、諸国の寺や霊場をまわって修業して
いる僧侶が登場し、都を出て四国に修行に行こうと
言います。ワキ方の役で旅の僧を江崎敬三(えさきけ
いぞう)が、供の僧侶を和田英基(わだひでき)が勤め
ます。ワキの僧は角帽子をつけ、無地熨斗目に絓水
衣の姿で袴をつけない旅での修業中の姿をあらわし
、お供の僧侶はワキの僧と同じ扮装ですが、水衣を
よれ水衣とすることでワキの僧侶よりも粗末な身な
りであることを表現します。
(月も南の海原や)都とは異なり、月も南の海から昇
る。我々も南の海へ、屋島の浦を訪ねよう。
私は都から旅に出た僧侶です。私はまだ四国を見た
ことがないので、今回思い立って都よりも西の国を
歩いて修業したいと思います。
(春霞浮き立つ)春霞が立つのどかな春だが旅に出よ
うと思い立って舟に乗った。
(入日の雲も影添いて)夕焼けの雲の光も自分たちを
照らすが、阿弥陀如来の極楽浄土の方向である西に
向かい、
(はるばるなりし船路経て)遠い船路を経て屋島の浦
に着いた。屋島の浦に着いたのである。
(急ぎ候程に)讃岐国、現在の香川県の屋島についた
僧侶たちは日が暮れかけたので、浜辺の塩を作る作
業小屋に泊まらせてもらおうと言います。
一セイの囃子で、主人公、シテの老人とツレの若い
男が登場致します。前半の主人公、前シテの漁師の
老人を久田勘鷗(ひさだかんおう)が、若い男を久保
信一朗(くぼしんいちろう)が勤めます。シテは小格
子の上に水衣・腰蓑をつけて釣竿を持ち、年老いた
漁師であるという設定です。若い男は段熨斗目に水
衣・墨絵扇を持っております。シテの面は三光坊作
の「笑尉」です。
(面白や月海上に浮かんでは)面白い景色だ、月が海
上に浮かんで明るく海を照らす有様はまるで広い草
原を焼く野火のように見える。
(漁翁西岸に)漁師が湘江の西岸に仮寝して
(暁湘水を)暁に川の水を汲み、南方の楚の国特産の
竹を焼いて湯を沸かすという詩の光景も、屋島の浦
で漁師をしている今の自分にはよく理解できる。浜
辺の芦を焚いて焚火をする光が心にしみる夕方であ
ることだよ。
(月の出汐の)月が出て霞の中を小舟が漕ぎ寄せられ
、漁師が互いを呼ぶ声によって村里が近いことが知
られることだ。
主人公と若い男は舞台に入りますが、このしぐさで
舟からおりて浜に上がったことを示します。二人は
漁師の身の頼りなさを述べ、それに続いて屋島の浦
の静かな春の夜の美しい景色を謡います。
(一葉万里の)木の葉のような小舟で遠い船路を行く
漁師の身は、吹く風に身を任せる頼りない身の上で
ある。
(夕べの空の雲の波)夕焼の雲が
(月の行方に立ち消えて)月の向こうで消え、霞の向
こうに岸の松原がぼんやりと見え、松が緑色に見え
るので、海岸がどこであるかはっきりと見えないが
、この海は遠く九州の筑紫の国にも続いているのだ
ろう。
(ここは屋島の浦づたひ)ここは屋島の浦に続く浜辺
で、漁師の家も多く、
釣りに忙しくて暇もなく、海の上は海人の小舟の形
がぼんやりとかすんで見える夕方であるが、浦風ま
でのどかで、春は憂いの心を誘うのだろう。
(まづまづ塩屋に帰り)漁師たちは岸について休もう
と言います。
(塩屋の主かへりて候)旅の僧は、塩の作業小屋の主
人が帰ってきたと思い、声をかけます。
(いかに申し候。)若い漁師が僧の望みを老人に取り
次ぎます。老人は見苦しい作業小屋なのでと断りま
す。
僧侶は見苦しくても差し支えないといいます。そし
て自分は都出身でこの屋島には初めて来たのでぜひ
泊めて欲しいと頼みます。若い漁師はこの言葉を年
配の漁師に取り次ぎます、
老人は旅人が都の人と聴き、お気の毒だなあと同情
して彼らを泊める事にします。
(もとより住処も芦の屋の)そしてこの住処は海岸の
芦で作った粗末な家で、ただ草を枕にするようなも
のだとお思い下さいと言います。
(しかも今宵は照りもせず)今日は照りもしなければ
曇りもしない最高に美しい朧月夜なのだが、(屋島に
立てる高松の)漁師は僧に、松に生える苔(こけ)の
ようなこんな粗末な敷物で寝るのは気の毒だと言い
ます。
老人は僧侶に美しい海辺の景色を見るようすすめま
す。
さて心を慰めるものとして、あの群れている鶴を御
覧ください。鶴は雲井、すなわち高い空に帰る事で
しょう。旅人のふるさとが都と聞くと懐かしいこと
です。私たちも元は・・・と言って、すぐに涙を流
したのである。
この老人と若者が、もとは都の雲井、すなわち宮中
にいた身分の高い者であることをほのめかします。
(いかに申し候。何とやらん似合わぬ)僧侶はこの屋
島が源平の合戦の戦場であると聞いているので、夜
の間その合戦の様子を語ってほしいと頼みます。
(易き間の事語って)老人は語り始めます。主役の老
人が一人で語るこの場面は、シテの聞かせどころと
なります。
(いでその頃は)その合戦は元暦元年三月十八日だっ
たのだが、平家は浜辺から一町ほど沖に船を並べ、
源氏はこの浜辺に出て向かい合った。
(大将軍の御出立には)源氏方の大将軍である義経の
その日の服装は、赤に錦の直垂の上に大将の鎧であ
る紫の大鎧をつけ、馬の鐙(あぶみ)に掛けた足を
ふんばり立ちあがって
(一院の御使、源氏の大将)後白河院の使いで治安を
担当する検非違使五位の尉、源の義経と
(名のり給ひし御骨柄)名乗りなさった風格はさすが
に源氏の大将だ、立派だと思ったことを今のように
思い出されることだ。
(その時平家の方よりも)その時、互いに相手に降伏
を呼びかけたが決裂したので、平家の方から兵士を
乗せた船が一艘岸に近づき、波打ち際に兵士が下り
て、陸からの敵を迎え撃とうとしているが、
(源氏の方にも続く兵五十騎ばかり)源氏にも五十騎
ほどが陸から平家を攻撃しようとした。中でも三保
の谷の四郎と名乗った者が先陣として斬りこんでき
た。
(平家の方にも)平家の方でも悪七兵衛景清と名乗り
を上げた者が、三保谷をめがけて戦った。
(かの三保の谷は)その三保の谷は太刀を折ってしま
い戦えないので仕方がなく、岸の味方の方に退却し
た。
(景清追つかけ三保の谷が)景清は三保の谷を追いか
け、身に付けていた甲の端の、「しころ」という鎖
で編んだ場所をつかんで後ろに引いたので、三保谷
も景清から逃げようと体を前に引いた。互いに力を
出して引く力によって兜の端のしころがちぎれて、
左右にばっと離れたそうだ。
(これを御覧じて)この三保谷と景清との力比べを、
義経が「よく見たい」と馬を水際に寄せられたとこ
ろ、
(佐藤継信、能登殿の矢先に)義経の家来の佐藤継信
が能登の守教経の矢に当たり、馬から落ちて亡くな
ったが、
(舟には菊王も)舟では逆に教経の部下の菊王が戦死
したので、共に悲しく思われたのか、
(舟は沖へ陸は陣へ)平家の舟は沖に、源氏の軍は岸
から離れた陣地にともに引き揚げた後は相手を襲撃
する時の鬨の声も亡くなって
(磯の波松風ばかりの)磯の波の音と松を吹く風の音
のみの淋しいありさまとなったことだ。
(不思議なりとよ海士人の)不思議ですね。漁を仕事
とするはずの方にしては余りに詳しくご存知ですが
、あなたの名前を教えてください。
(わが名をなにと夕波の)私の名を何というか。さあ
、古い歌に木の丸殿にいる天皇が名のりをしつつ通
る者を尋ねるというのがあるが、私はその御殿にい
るのではないから、名乗らないよ。
(げにや言葉を聞くからに)まったく和歌を引用した
言葉を聞くにつけても普通の漁師の老人とは思われ
ず、名前が知りたいものだが。。
(昔を語る小忌衣)昔の戦いの様を語っているにつけ
ても。春の夜の、
(潮の落つる暁ならば)暁方になれば修羅王が帝釈天
と戦う修羅の時になるだろう。その時には私の名を
名乗ろう。
(たとひ名のらずとも名のるとも)たとえ名乗らなか
ったとしても名乗るとしてもよし、常の辛い世の中
なのだから、夢をさまさないでくださいよ。夢をさ
まさないように。と、「よしつねの浮世の」の言葉
に義経の幽霊であることをほのめかして姿を消しま
す。
ここに本当の塩屋の主人が登場し、なぜ自分に断ら
ないでこの作業小屋に泊まっているのか尋ねます。
狂言方の役で佐藤友彦が勤めます。旅の僧が今の老
人と若い男の話をします。そしてこの屋島の戦いの
話を塩屋の主人が話し始めると、僧は那須の与一が
扇の的を射た話を所望します。それに答えて、那須
の与市が平家方の扇の的を射よという挑発に答え、
見事にその的を射落とした話をします。これは、仕
方話といって所作を交えて語るもので、一人で那須
与一、義経、義経の部下、ナレーターと四役を演じ
分ける難しいものです。狂言方の流儀によってはこ
の部分を「奈須与市語」(なすのよいちのかたり)
と呼び、重要な演目にしています。
僧侶は今の老人が義経の幽霊であると確信します。
「春の夜の潮の落つる暁ならば・・・わが名や名の
らん」の言葉から、僧侶は夢に義経の幽霊が現れる
事を期待して松の根を枕に横になります。
(不思議や今の老人の)ふしぎなことだ。今の老人が
名前を尋ねた返事にも「よしつねの世の夢心」と義
経という名前が聞こえたのだが
(声も更け行く)よしつねという声もしだいに耳から
遠のき、音を立てて吹き渡る浦風の中で、松の根を
枕にして、一面の苔を蓆の代わりにして寝て、もう
一度の夢の対面を待つことだ。再び夢で逢いたいと
思い、待つことである。
一セイの囃子で、後半の主人公、後シテの義経の幽
霊が登場します。久田勘鷗が勤めます。面は出目洞
●作の平太(へいた)、黒垂(くろたれ)の頭髪に、
梨打烏帽子(源氏なので先が左に折れています)、
さらに白鉢巻・紫の法被・赤地の半切を身につけて
、甲冑姿であることを表現します。
(落花枝に帰らず)落ちた花が枝に戻ることはなく、
壊れた鏡は二度ともとの鏡のように物を照らすこと
はない。
(しかれどもなほ妄執の)しかし私は死後も生前の敵
への怒りが忘れられず、成仏することが出来ず、こ
の世に幽霊として帰ってきて、自分の怒りの思い故
に自分を苦しめて、修羅道に落ちて永遠に戦い続け
るというのは、前世から人間を経て、今修羅道に堕
ちるまで、深い悪業のせいなのだ。
(不思議やな)不思議なことだ。はやくも暁になるだ
ろうかと思う枕の夢に、鎧兜を身に付けて私の目に
映られたのはひょっとして判官義経公ですか。
(われ義経が幽霊なるが)私は義経の幽霊なのだが敵
に対する怒りの心を死後も忘れることが出来ず、悟
りを得ることが出来なかったので、なおも幽霊は四
国・九州の生前戦った土地にとどまり、魂は永遠に
戦い続けて輪廻転生を繰り返す修羅道に堕ちて苦し
んでいるのだ。
(おろかやな心からこそ)愚かしいことだ。自分の心
ゆえにこそ悟りを得ることが出来ず極楽に行けなく
て輪廻転生を繰り返すのだが、悟りを象徴する真如
の月が
(春の夜なれど曇りなき)春の夜ではあるけれど曇り
なく照っていて、
(心も澄める)心も清らかに住む今晩の空の様子を見
ながら。
(昔を今に)昔の合戦の有様が自然と思いだされるこ
とだ。
(舟と陸との)舟に乗った平家と陸の源氏の合戦の様
子。ここがその戦いの場所であるゆえに忘れること
が出来ない。
(武士の屋島にいるや槻弓の)武士がいて屋島で弓を
射る。射た矢ならば元の場所にとどまることはない
はずなのに、
(もとの身ながらまたここに)自分は死んでこの世を
去ったあとも鎧兜をつけた元の姿のままでこの屋島
にいる。
(弓箭の道は迷はぬに)戦いでは迷うことなく勝利し
たのだが、
(迷ひけるぞや生死の海山を)悟りを開くことなく、
冥途では極楽への道を迷ってしまったのだ。
(帰る屋島の恨めしや)極楽に行くことなく、弓矢の
矢という戦いを忘れられない名前を持つ屋島に魂が
帰ってくるとは恨めしいことだ。
(とにかくに執心の)これからこの世での心残りとも
なる、自分の名前を残したいという気持ちについて
、僧侶であるあなたの夢の中で語ります。
(なおなお弓流しの謂れ)僧はここで、義経の幽霊に
向かって「弓流し」の話について語るように勧めま
す。この弓流しの話は、義経が自分の命よりも「強
い武士であるという名誉」を大切にしたことを内容
とする話です。屋島の特殊演出である大事・弓流の
時のみ、この僧からの言葉が入ります。この部分か
らシテの義経は床几に腰を掛けて語ります。屋島の
「大事」のみの演出で、「出陣した大将」の姿を表
わす演出です。
(忘れぬものをえんぶの故郷に)死後も忘れることが
出来ないことだ。生前の故郷であるこの世から去っ
て時間も経っているのだが、
(夜の夢路に通ひ来て)僧の夢の中にやってきて、懺
悔のために修羅道に堕ちてしまった原因である生前
の戦いの様子を語るのだ。
(思ひぞいづる昔の春)月も合戦の晩と同じく明るく
輝いている。
(もとの渚はここなれや)戦場となった海岸はちょう
どここだったろうか。源氏・平家ともに相手に矢を
向けて、平家は舟を並べ、源氏は馬を並べて海に入
り、馬の脚が海へ、くつを濡らすほどの深さまで入
ったところで戦った。
この部分から義経がうっかり弓を落とし、それを拾
う所作をいたします。舞台に扇を落とすことによっ
て弓を落としたことを象徴させます。弓を象徴する
扇を拾うまで、通常の演出にはない型で演じます。
義経の大将としての気概と風格を見せる見せ場です
。
(その時何とかしたりけん)その時どうしたのだろう
か。義経は弓を手から落とし、弓は波にさらわれて
流れていったのだが。
(其をりしもは引く汐にて)ちょうどその時は退く汐
だったので、弓は見る間に遠くまで流れて行ってし
まったのだ、
(敵に弓を取られじと)義経は敵方に弓を取られない
ようにと、馬を波間に泳がせて弓を追いかけて行っ
たのだが、義経が敵の船の近くに行ったので、
(敵はこれを見しよりも)平家方は義経が自分たちの
船に近づいてきたのを見て、義経に船を近づけて熊
手で義経の身体をひっかけて捕まえようとしたので
、義経はもう捕まえられてしまうだろうかと危ない
様子に見えた。
(されども熊手を)このような危ない状態だったが、
義経は自分を捕まえようとする熊手を切り払ってと
うとう弓を取り戻し、元の海岸に戻った。
(その時兼房申すよう)その時、義経の老巧で忠実な
部下である兼房が義経に申し上げたことは、「大将
として残念な行動をなさいますね。渡辺で景時が義
経様を非難申し上げたのも、まさしくこのような自
分の命を意味なく危険にさらすような行動をなさる
からです。たとえものすごく高価な金を伸ばして作
った弓であったとしても、自分の命よりも大切とい
うことはないでしょう、危険なことは止めて下さい
」と涙を流してお諫め申し上げると、義経はこの兼
房の言葉をお聞きになって、「いや弓を惜しんだの
ではないのだ。
(クセ 義経源平に弓矢を取って私なし)義経は源平
の合戦において、私利私欲のために戦ってはいない
。しかしながら名将としての評価はまだ道半ばで満
足できるものではない。
(さればこの弓を)だからこの弓を敵に取られたら、
義経は力がない人が使う弓を持っている弱い兵士だ
と言われるだろう、それが残念なのだ。
(よしそれ故に討たれんは)もし弓を取り返すために
討たれて戦死したならば仕方がない、義経の武運が
尽きたのだとあきらめられるのだ。
(さらずは敵に渡さじ)戦死しないなら、弓を敵に渡
してはいけないと思って
(波に引かるる弓取の)波間に弓を追いかけたのだ。
武士にとって
(名は末代にあらずやと)手柄を立てた、勇敢だった
という名前は後世までも語り継がれる大切なもので
はないかとおっしゃったので、
(兼房、さてほかの人までも)兼房や周囲の兵隊たち
も、大将としての名誉を大切にする義経の態度に感
動して涙を流したとのことだ。
(智者は惑はず)智慧のあるものは迷うことがなく、
(勇者は恐れずの)勇者は恐れるものがないというが
、
(やたけ心の梓弓)勇猛な武者の道具である弓を
(かたきには取り伝へじと)敵に渡すまいとして流さ
れた弓を追いかけたのは、自分の勇猛な武将である
という名前を大切にしたからで
(惜しまぬは一命なれば)惜しまなかったのは自分の
命であったから、
(身を捨ててこそ後記にも)自分の命を惜しまず戦っ
たからこそ、後世に記される戦いの記録にも、
(佳名を留むべき)義経の武名を手柄として遺すこと
が出来たのだ。
(又修羅道の鬨の声)また修羅道で敵味方に分かれて
戦う合戦の始まりを告げる大声が響きわたった。両
軍の激しく戦う大声で地面が鳴り響いている。
義経は修羅道に堕ちて、やはり修羅道に堕ちた平教
経と戦うことになります。
(今日の修羅の敵は誰そ)今日の修羅の敵はだれだ。
なんと能登の守教経だというのか。
(あらものものし)ああもったいぶって偉そうだな。
教経の戦い方は知っている。
(おもひぞ出づる壇ノ浦の)思いだすのは生前の壇の
浦の戦いで。
(そのふないくさ今は) 屋島の浦での舟での戦いは
今すでにこの修羅道でもはじまり。この世に帰って
きて生死をかけて戦うのだが。
(海山一同に震動して)海も山も同時に大きく震動し
て。平家の舟からは戦闘開始を知らせる鬨の声があ
がり、陸には矢を防ぐ盾が波のように並び、
(月に白むは)月の光で剣が輝き、
(潮に映るは)海の上に兜につけた星の光が映る。
(水や空、空行くもまた雲の波の)これは修羅道での
戦いだが、昔の屋島の戦いそのままに、海面が空に
接していて、空にも雲が波のように続いている。そ
の中で刀で打ち合い、互いに刺し違えて死ぬという
、激しい舟の上での戦が続いているように見えてい
たのだが、
(春の夜の浪より明けて)春の夜が海の方から明けて
きて夢が覚めてみると、敵である平家の軍勢と見え
ていたのは海上に浮いている多くの鷗であり、進軍
の鬨の声と聞こえていたのは浦風だった。屋島に続
く高松の海岸に吹く強い風だったのだよ。
義経と若い男の亡霊は夜明けとともに消え、その後
にはただ風が吹き、夢がさめた僧侶のみが残されて
一曲は終曲を迎えます。能は余韻を楽しむ芸能です
。拍手は僧侶が一番幕際の松、三の松と呼びますが
、そこを通過するまでご遠慮ください。
本日のイヤホンガイドは椙山女学園大学の飯塚が担
当させて頂きました。ご清聴ありがとうございまし
た。
2012年10月8日 連休最終日です。連休と言うのは、「休み」というよりも「普段できないことが出来る日」として貴重ですが。。。四十代半ばから、「若い頃ならば当然これだけの時間で出来たはずだ」ということがその時間でできなくなってきました。出来るものもあるのですが、老眼になってしまったこともあって確認に時間がかかるのですね。「記憶力」も子供の頃覚えたことは大丈夫ですが、仕事の予定や段取りがまずい。。重要なことを忘れて人に迷惑かけるのもしばしばです。「出来て当たり前」の働き盛りの年齢なのですが。。仕事はセーブして「出過ぎない」ようにしなければと思っています。今日も昼から外出しますが午前中は研究費の申請書類作成に充てます。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。下記に東海能楽研究会の例会案内を載せます。よろしくお願いいたします
東海能楽研究会 会員各位
下記の通り、東海能楽研究会例会を行いますのでよろしくお願いします。
期日:2012年12月16日(日) 午後2時~4時
今回は午後2時からの開催になります。お間違えないようお願いいたします。
場所:文化のみち二葉館一階会議室 (南側玄関は有料スペースのため北側玄関(いつもの玄関)から入館してください。手洗いも一階北
側を利用ください。)
名古屋市東区橦木町3丁目23番地 〒461-0014 電話:052-936-3836 ファックス:052-936-3836
発表:「能《絃上》の変遷 ―村上帝は竜王か?―」(米田真理氏)
また例年通り年報を発行したいと思います。内容は従来通り、①研究ノート、②資料紹介、③能・狂言評とし、原稿は2000字以内
で、来年2月末までに代表(兼年報編集担当)の林和利先生まで、できるだけメール<khayashi@nagoya-wu.ac.jp>への添付ファイルの形
でお願いします。原稿を手書きなさる方は事前に林先生までご相談ください。
なお応募者多数の場合は、翌年に廻っていただく場合もございます。(少数ですが次年度に回って頂いたことがありました。)
その他、詳細点につきましても林和利先生とご相談ください。先生の連絡先は以下の通りです。
名古屋女子大学天白学舎 〒468-8507 名古屋市天白区高宮町1302
TEL (052)801-1133(大学代表電話番号) (052)801-4035(研究室直通)
(052)805-3875(FAX)
なお今年度の会費を未入の方は以下の要領でご入金ください。
(この案内は会員以外の協力者の方にもお送りしております。
会員以外の方は振り込む必要はありませんので御放念ください。)
年会費は一律3000円です。口座は郵便局です。
郵便局ぱるる口座からの振替、郵便局窓口からの振込の場合には、
記号:12160、番号:53854321、東海能楽研究会へ入金してください。
銀行・信用金庫の口座・窓口から振込をなさる場合には、店名、口座番号などの表記が下記のようになります。 店名:二一八(漢数字
の”にいちはち”です)
店番:218 預金種目:普通預金 口座番号:5385432 口座名:東海能楽研究会
微妙に異なりますのでご注意ください。
また東海能楽研究会の案内・資料送付を不要の方は、恐縮ですが「東海能楽研究会例会案内・資料不要」と題名にお書きの上、メール〈
erito@sugiyama-u.ac.jp〉又はファックス(052-781-6651: 椙山女学園大学文化情報学部の番号ですので、必ず題名に「飯塚恵理人宛
」とお書きください。
2012年10月6日 フェイスブックやツイッターの更新は続けていましたが、ホームページの更新は怠っていました。フェイスブックはご覧になった方の反応がすぐに分かる点とスピードが速いのが魅力です。しかし記録性と言う意味ではホームページの方が高いので、九月二十九日に行われた小牧山薪能のイヤホンガイドの記録のみ、こちらに載せます。今日は名古屋能楽堂定例能の事前講座です。枕慈童です。頑張ります。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
僕にとって初めての野外のイヤホンガイドでした。台風の接近により、四時半には雨がぱらつきはじめ、七時半には降ると言うネットの天気予報。。時間繰り上げて名東高校と小牧謡曲愛好会の仕舞が行われてすぐに火入れ式。五時四十分から吉野天人開演でした。以下当日の読み上げ原稿を上げます。
吉野天人
笛・小鼓・大鼓の囃子方が楽器の調子を調えるお調べが聞こえて参りました。間もなく開演となります。最初に物語の筋を簡単に説明させて頂きます。
最初に風流を愛する都の人が登場します。そして春になると桜の美しい場所を探して花見をしているが、美しい嵐山の千本の桜の元である種を取った場所として知られている大和の吉野の山に桜を訪ねようと言います。吉野の山についた一行がなおも桜を求めて山奥に入ろうとすると美しい多数の天女が現れ、桜に戯れながら舞を舞います。そして、天女たちは白い雲に乗り、消えて行きます。この時代の桜は山桜ですので白い花です。日本では雪月花と言い、雪・月・花を最高に美しいものとして和
歌に詠みますが、和歌の上では三つとも「白」の美しさとして詠まれます。この美しい景色の中で美しさにひかれてこの世に天下った天女が舞うという筋になります。
幕を片方のみ開けて、囃子方が登場致します。笛・鹿取希世(かとりきよ)、小鼓、後藤孝一郎(ごとうこういちろう)、大鼓・河村総一郎(かわむらそういちろう)、太鼓・鬼頭義命(きとうよしのぶ)の各師となります。舞台の向かって左、切戸口と呼びますが、そこから本曲のコーラス、地謡を担当される方が登場致します。地謡のリーダーを地頭(じがしら)と呼びますが、本曲の地頭は武田邦弘師が勤められます
次第の囃子で都の男が登場します。高安流ワキ方の橋本宰(はしもとつかさ)が勤めます。段熨斗目(だんのしめ)の上に素襖上下(すおうじょうげ)をつけ、小刀(ちいさがたな)を腰にさしています。庶民の普段着の姿です。
[当日は脇の名ノリ省略。「不思議や虚空に」から行った。]山櫻の花が白く雲のように見えるのを目当てにして、吉野山の奥の桜を観に行こう。
都の男は、「自分が都に住んでいる者で桜の花を眺めに行くのだが、毎年特に嵐山の千本の桜(ちもとのさくら)をながめている。この千本の桜は吉野山の桜から種を取って植えた花だと聞いたので、その親の木である吉野山の桜を観たいと思い、若い人々を連れてこれから吉野山に行くのだ」と言います。
今年の春は、特に桜が美しく咲き、心も浮き立つのだが桜の美しさに心も深く惹かれるのだろうか、深く染まった心の通う緑の青柳の糸のようにながい枝の露も乱れ落ちるような春雨が昨夜降ったためだろうか、花が朝露にしめつて際だって美しく見える吉野山についたことだ。
都の者は、吉野山についたことを述べると、「さらに美しい花を求めて、山奥に入ろう」といいます。そうすると素晴らしい音楽が聞こえ、良い香りがしてきます。
(不思議や虚空に音楽聞こえ) 不思議だ、空から音楽が聞こえてきて、素晴らしい香りがして花が降ってきた。これは世の中が平和に治まっているからなのだろうか?
出端の囃子で、天女達が登場致します。主役の天女を近藤幸江(こんとせうゆきえ)が、おつきの天女を前野 郁子(まえのいくこ)・今沢 美和(いまざわみわ)・星野 路子(ほしのみちこ)・村井 邦子(むらいくにこ)が勤めます。天女の装束は、頭に天冠をつけ、髪の毛を象徴する蔓と蔓帯、上には摺箔の上に天女が空を飛ぶ時の衣である羽衣を象徴して長絹(ちょうけん)をつけます。下は縫箔(ぬいはく)を腰巻のように巻いています。主役の天女の面は増女(ぞうおんな)、おつきの天女の面は小面(こおもて)です。
(云ひもあへねば)男が言い終わらないうちに雲の上から、琵琶(びわ)琴(こと)和琴(わごん)笙(しょう)篳篥(ひちりき)鉦鼓(しょうこ)鞨鼓(かっこ)などの弦楽器や笛の音が美しく聞こえる中、春風に天女が羽衣の袖を返して、美しい桜の花の中で舞うことだよ。
この部分から中之舞になります
天女が羽衣で大きな岩をなでる。限りない時間の末にはさすがの岩もすり減りなくなってしまうだろうが、君の治めるこの国は永遠に決して終わることはないと、天女は讃えます。
天女が花の咲く梢を飛び遊んでいると、この上もない君の恵みにより治まっている国であるので風も天女が空に帰る雲の通い道を閉じてしまい、天女の姿をここに留めてしまう。春霞がたなびき、吉野の桜も霞も白いので、桜が散っているのか霞なのか分からないように見えたが、天女は桜のように見える雲に乗り、桜に見える真っ白の雲に乗って、まったく行方もわからず消えてしまったことだ。
土蜘蛛イヤホンガイド原稿
笛・小鼓・大鼓・太鼓の囃子方が楽器の調子を調えるお調べが聞こえて参りました。間もなく開演となります。最初に物語の筋を簡単に説明したいと思います。
京都の治安を守る源頼光が原因不明の病気で苦しんでいます。そこに召使の胡蝶が薬を持ってきます。頼光はもう死んでしまうのではと言い、胡蝶が慰めます。夜中に、僧の姿をした化け物が頼光の寝室に来て、頼光に蜘蛛の糸のようなものを投げかけ、頼光を縛って殺そうとします。化け物は葛城山に住む土蜘蛛の精でした。頼光は枕元にあった先祖伝来の名刀膝丸で応戦し、化け物は刀傷を負って逃げます。頼光は駆けつけた家来の独武者(ひとりむしゃ)に化け物の退治を命じます。独武者は家来を率いて土蜘蛛の塚に行き、激しい戦闘の末、土蜘蛛を退治します。
幕を片方のみあけて、囃子方が登場致します。笛・藤田六郎兵衛(ふじたろくろびょうえ)、小鼓・船戸昭弘(ふなとあきひろ)、大鼓・河村総一郎(かわむらそういちろう)、太鼓・鬼頭 義命(きとうよしのぶ)の各師となります。舞台向かって右側の切戸口より本曲のコーラスを担当する地謡方が登場致します。地謡のリーダーを地頭(じがしら)と呼びますが、本日の地頭は梅田邦久師が勤められます。
最初に後見が一畳台を運びます。これが源頼光の病室の床、ベッドのようなものを象徴します。
頼光が家来の太刀持、身近に仕える召使をつれて登場します。源頼光を武田大志(たけだひろし)がつとめます。太刀持は吉沢旭(よしざわあきら)が勤めます。頼光の肩に後見が小袖をかけますが、このことによって頼光が病で寝ていることを示します。枕元に刀を差しいれます。
次第の囃子で召使の女、胡蝶が登場いたします。胡蝶を八神孝充(やがみたかみつ)が勤めます。浮いている雲のように定めない命がどうなるか、ひどい風邪を召された頼光様のお見舞いに伺いましょう。(定めない命を象徴する空の雲と、虫の蜘蛛とをかけて、この病気が蜘蛛の化け物の仕業であることを暗示しています。)
胡蝶は、自分が頼光の家に仕えている胡蝶という女であること、頼光がひどい病気なので医師からの薬を持って頼光の元に行くことを述べます。そして頼光の太刀持に薬を持ってきたことを告げます。胡蝶は薬を持ってきたことを告げ、太刀持は機会を見て申し上げると言います。
ここかしこに出来ては消えてしまう水の泡のように、はかない世の中で生きている自分なのだなあ。まったく心は重く、軽い布団でさえも重く感じられるほど身体も弱ってしまった。この病気を誰のせいと怨むことも出来ず、着物を敷いた床の上で辛い思いで過ごすことだなあ。
召使は頼光に胡蝶が来たことを知らせます。頼光は太刀持ちに向かって、胡蝶にこちらに来るように伝えるようにと言います。太刀持ちに言われて胡蝶は頼光の前に進み、薬を持ってきたことを告げて容態を尋ねます。頼光が昨日から気力・体力も弱って死ぬのを待つばかりだというと、胡蝶は治療によって直ることも多いと慰めて退出します。頼光が昼夜時間が経ってゆくのもわからないほどの状態で苦しんでいると、その病室に呼ばれてもいない怪しい僧が現れます。この曲の主役で梅田嘉宏(うめだよしひろ)が勤めます。直面(ひためん)で角帽子を沙門につけ、黒系統の装束をつけていますが、これで力が強い、怪しい僧侶であることを表現します。
(月清き)月が美しい夜とも見えない。月に雲や霧がかかると曇るように、蜘蛛の精が出ると憂鬱になる心だろう。
(いかに頼光)怪しい僧は頼光に気分を尋ねます。頼光が知らない僧が深夜自分を尋ねることに不審を抱きます。僧はあなたが病気になったのも蜘蛛のせいだと述べ、さらに近づいて頼光に対して糸を投げ、頼光の身体を縛って苦しめます。
頼光はこの僧が化け物であると知り、枕元に会った先祖伝来の「膝丸」という名刀を抜いて僧に斬りつけます。蜘蛛の化け物が避ける所を続けて斬りつけ、「倒したぞ」と頼光が大声をあげたかと思うと、僧の姿は消えて、見えなくなってしまった。
僧は通常そのまま幕にいるが、今回は独武者にすれ違い様に糸を投げかけ、それから幕に入る。
早鼓の囃子で幕から独武者が出て頼光の前にかしこまります。
独武者が頼光の大声が聞こえたので駆けつけましたと言うと、頼光は早く駆けつけたことをほめ、化け物の襲撃があったことを語ります。
夜中過ぎに、知らない僧が来て自分の気分を聞いた。お前は何者なのだと尋ねると名前は答えず「我が背子が来べき宵なりささがにの」という古い歌を述べてたちまち二メートルを越える大きな蜘蛛となって私に多くの糸を投げかけてきたので、枕においてあった名刀膝丸で切り伏せたのだが、ばけものであったようで、姿を消してしまった。この難を逃れたのも全くこの名刀膝丸のおかげであると思うので、今日からこの名刀を蜘蛛切と言う名前に改名しよう。なんとふしぎなことではないか、と頼光は語ります。
独武者は、昔からのことではありますが、平和を守る日本の主君の権力と朝敵を退治する剣の威力は目出度いことですといい、化け物の血が流れているので、この血の痕をたどって化け物を退治しようといいます。頼光は急いで出かけるように言います。
早鼓の囃子で、独武者の家来が三人登場し、独武者が頼光の命令で蜘蛛の化け物を退治に行くことを噂しあいます。狂言方の佐藤 友彦(さとうともひこ)・今枝 郁雄(いまえだいくお)・鹿島 俊裕(かしまとしひろ)が勤めます。彼らの扮装を早打出立といい、急いで連絡に回っているという設定です。「間狂言」と言い、これまでの舞台の流れをまとめて観客に言う形で劇のあらすしをはっきりさせるものです。前半は僧と頼光の闘争、後半は独武者と土蜘蛛との闘争場面がありますので、ここはふっと息が抜けるようなのどかな場面として作ります。独武者と一緒に退治に行くかと言われて、結局三人とも行かないで帰りを待つと言う展開になります。
後見が「塚」の作り物を出します。頼光を襲った化け物土蜘蛛のすみかと言う設定です。「ひきまわし」という布がかかっていて中の様子が見えなくなっています。
一セイの囃子で、武装した独武者の一行が登場致します。独武者を高安勝久が、独武者の家来を杉江元(すぎえはじめ)と椙元 正樹(すぎもとまさき)がつとめます。独武者 は侍烏帽子・直垂・白大口で、武装した侍を表現します。独武者の家来の装束は斬組出立といい、命令を受けて戦う下級の武士という設定となります。
独武者立衆一声「藤波の」「藤の蔓がかかっている木々の梢を強い風が吹いて藤の花を散らしてしまうようだ」。勇猛な独武者の一行を強い風に譬えて表現します。
独武者は土蜘蛛のすみかに着くと、土蜘蛛に向かい大声でなのります。
独武者は前に出てその塚に向かって大声でいったことには、「私の事は噂でも聞いているだろう。頼光の家来の中でも強いことで有名な独武者だ。どのように強い天界の悪魔や鬼・神であったとしても命を取るぞ。この塚を崩してしまえ」という声に、みな勇気づけられたのである。独武者の命令に従う武士たちが、塚を崩し、石を裏返すと塚の中から火をだしたり、あるいは水を出したりして抵抗したが、大勢で塚を崩すと不気味な岩の間から化け物は姿をあらわした。
引き回しを後見が下し、中の土蜘蛛の精が見えるようになります。土蜘蛛の精は後半の主役で梅田嘉宏が勤めます。面は顰(しかみ)、赤頭・法被・半切で、牙を持っていますから国土の平和を乱そうと言う邪悪な男の鬼を表現します。
鬼は独武者に対して名乗ります。「お前たちは知らないのか。私は昔葛城山に長年住んでいた土蜘蛛の精なのだ。まだこの主君が治めている世の平和を乱そうと治安の責任者である頼光を倒そうと襲撃したのだが、却って私を殺そうと言うのか。」
独武者(其時独武者) そのとき独武者は前に出て、お前は天皇の治める土地に住みながら、平和を乱して主君を困らせた天罰が、剣でけがをした程度で済むはずはない。お前の命をとってやろうと、武士たちが手を組んで土蜘蛛に向かってゆくと、土蜘蛛の精は多くの糸を手元にためて投げかけたので、その糸が手足を縛って武士たちは皆倒れてしまったように見えた。
この部分から舞働という、独武者一行と土蜘蛛との戦闘場面となります。
このような劣勢ではあったけれども、天皇の治めるこの国の恵みを頼みにして、あの土蜘蛛を中に閉じ込めて大勢で襲いかかると、土蜘蛛が剣の光に少し恐れた様子であるのを攻撃の頼りにして切り伏せ切り伏せて、土蜘蛛の首を打ち落として喜んで都へ帰ったのである。
土蜘蛛が退治され、国土の平和が回復して一曲は終曲を迎えます。
本日のイヤホンガイドは、椙山女学園大学の飯塚が勤めさせて頂きました。ご清聴ありがとうございました。
2012年9月23日 明日から後期の講義が実質的に始まります。一時間目が留学生の御園座夜の部観賞四ノ切事前講座、二時間目が文学これも四ノ切、三時間目が東海名古屋研究、これは狂言でやりたいです。四時間目がレポート・論文技法。放課後が能楽古文書読書会明日は藤田六郎兵衛家書簡です。予定びっしりです。席表とプリントは作ってありますが、朝大学にいって各教室に席表を張る事や、受講票を準備して配布する事、各講義の評価方法の基準やレポート・試験の課題説明は初回の仕事です。各大学共に学生の質の保証が求められていますから、この講義で何を身に付けるのか、どの点を一回一回の講義で身に付けたのか。。今回からは「本時間の目的」を板書して学生には受講票に「この時間に何が身に付いたのか(感想は〇点)」で四行以上学生に書かせ、それを自分の携帯で撮影して飯塚大学アドレスerito@sugiyama-u.ac.jpに毎回送らせて平常点をつけます。出欠と自分が身に付けたことを自己管理させたいです。寝ます。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年9月17日 昨日オープンキャンパスも終わり、今日はパパ業のため自宅におります。大江能楽堂のシンポジウムとか伺いたい催しもありますが、我慢します。放送文化基金の申請書、メディアと古典芸能研究会として申請しますので事務方として頑張って申請書書きたいと思います。民放草創期の放送資料の収集は、関係者が高齢化していますので急いで行う必要があります。頑張ります。お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年9月15日 比呂人の運動会、愛知教育大学附属岡崎中学校、保護者会役員として行かねばならなかったはずですが紀要が間に合わず欠席。家内と娘に行ってもらいました。娘も愛知教育大学附属岡崎中学校気に入ったみたいです。紀要の翻字再校終わりました。明日は椙山のオープンキャンパスです。椙山の魅力を伝えられるよう頑張ります。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年9月13日 もうすぐ夏休みが終わります。紀要の原稿も放送文化基金の原稿もこれからです。間に合うよう頑張ります。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年8月25日 もう夏も終わりです。なんとか痩せねばと思いながらご飯がおいしいので食べ過ぎてます。今日・明日は家に引きこもって愛知県史研究の原稿を書きたいと思います、岩田西園先生に教えて頂いた近代の名古屋の尺八・三曲資料の中間報告です。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年8月21日
東海能楽研究会庶務なので新入会員募集をかねてささやかな広報で?す。会員に発送したメールを揚げさせて頂きます。新入会員募集中です。どうぞよろしくお願いいたします。
下記のように東海能楽研究会例会を行いますのでよろしくお願いし?ます。期日 2012年9月30日日曜日午後2時―4時場所 文化のみち二葉館一階会議室 (南側玄関は有料スペースのため北側?玄関(いつもの玄関)から入館してください。手洗いも一階北側を?利用ください。
名古屋市東区橦木町3丁目23番地 〒461-0014 電話:052-936-3836 ファックス:052-936-3836
① 発表 「 「能《絃上》の変遷―村上帝は竜王か?―」米田真理氏
次回は二時からの開催になります。お間違えないようお願いいたします。
年会費は一律3000円です。この案内は会員以外の協力者の方にも送らせていただいております。会員外の方は振り込む必要はありませんので御放念ください。
年会費振込の方法 本研究会の口座はゆうちょ銀行です。
?銀行・信用金庫から振込をなさる場合には、店名、口座番号などの表記が下記のようになります。店名:二一八(漢数字の”にいちはち”です)店番:218預金種目:普通預金口座?番号:5385432口座名:東海能楽研究会
案内・資料不要の方は、恐縮ですが「東海能楽研究会例会案内・資料不要とかいてerito@sugiyama-u.ac.jpあてもしくはファクス 052-781-6651 (椙山女学園大学文化情報学部です。 飯塚宛と記入下さい)でご連絡ください。
2012年8月20日 オープンキャンパスもお盆休みも終わり、月末の愛知県史研究の締切や九月から始まる放送文化基金助成の申請準備、後期科目の教材準備の時期になりました。僕は仕事が「雑」なので(本来的な性格なのだろうと思いますが。。)気をつけて少しは進歩があったと思ってもらえるようにやりたいです。特に「校務」は。。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。</B>2012年8月20日 オープンキャンパスもお盆休みも終わり、月末の愛知県史研究の締切や九月から始まる放送文化基金助成の申請準備、後期科目の教材準備の時期になりました。僕は仕事が「雑」なので(本来的な性格なのだろうと思いますが。。)気をつけて少しは進歩があったと思ってもらえるようにやりたいです。特に「校務」は。。夏バテか頭がはっきりしません。このこともあって、肉体労働中心に仕事しています。8月13日の日記に書きました、8月11日の蚊相撲・蝉丸解説を音声で編集してあっぷします。拙い話ですが、自分の反省材料と一里塚として。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年8月16日 今日は弟真喜人の誕生日です。五歳違いなので金沢の確か小立野病院だったと思いますが、生まれた時父に手を引かれて見に行ったこと覚えているのですよね。あれから四十六年。。真喜ちゃんも茨城県立大学の助教として、研究に教育に、また良いパパとして頑張っているので。。真喜ちゃんが生まれた日の金沢も暑かったですが。。今日の安城も暑いです。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年8月13日
一昨日いただいた石川県立能楽堂観能の夕べ蚊相撲・蝉丸解説の原稿案です。当日はかなり上がってしまい、原稿通りには読めませんでした。昨日は携帯電話のアイシーレコーダーで自分の解説を録音しました(途中でとまってしまったため、不完全ですが)どのように話したのか「現場の処理」については編集してまたあげさせていただきたいと思います。
舞台の邪魔をしない解説、小学生にわかる解説になったかは心もとないですが。。よろしくご教示お願いいたします。。もう九時四十分。。眠れないままに。。
ただ今ご紹介に預かりました椙山女学園大学の飯塚と申します。どうぞよろしくお願いいたします。一昨年から観能の夕べの解説に呼んでいただいておりまして心より感謝いたしております。僕は昭和四十年から四十二年の秋まで、父が金沢大学教育学部に勤めておりました関係で、金沢の花里住宅に住んでおりました。まだ路面電車が走り、金沢大学がお城の中にあった時代で、父に手を引かれて散歩した場所に、四十五年後の今、名古屋から呼んでいただけるのは大変ありがたく、感謝です。
蚊相撲は、その名の通り蚊と人間が相撲を取ると言う話です。「大名」が、召使を一人抱えようとする。狂言で「大名」というのは、その人の名前のついた田んぼ、すなわち所有する田んぼをたくさん持っているお金持ちという意味です。たとえば能の「鉢木」では諸国一見の僧が、鉢木を焚いて焚火に当ててくれた主人公に対して「主の御苗字をば何と申し候ふぞ承りたく候。」と尋ねます。主人は「某は苗字もなき者にて候。」と答えますが、もう一度聞かれて「これこそ佐野の源左衛門の尉常世がなれの果にて候。」と「佐野」という苗字を名乗ります。苗字があるというのは「その苗字をつけた田、すなわち領地を持っている」ということなのです。ですが狂言はパロディですから、大名はそんなにたくさんの田んぼを持っていませんし、たいてい「召し使うものはただ一人」、家族と家来一人程度のちっちゃな「大名」です。
ですが、さすがに家族と召使一人では手が回らないからもう一人家来が欲しい。それで召使にもう一人家来を見付けて来いといいます。その家来が見付けてきた家来が蚊の精なのですが、「人ほどもある」蚊なのですね。僕らの世代ならば仮面ライダーのショッカー、ウルトラマンならばバルタン星人です。「怪人なんとか」という名前で出てきて正義の味方に退治される悪役です。こういうヒーロー物の悪役には、恐ろしい悪役と間抜けな悪役がありますが、蚊の精はどちらかと言えば「間抜け」な悪役です。
この蚊の精を狂言でどう表現するかというと、犬の役などに用いる「賢徳」という面に紙でストローのようなくちばしをつけます。それで相撲の最中に相手の「血を吸う」のですね。吸われた人はへなへなになって相撲に負けてしまいます。「蚊」の弱点はなんでしょう?殺虫剤や蚊取り線香のない時代、「蚊」を追い払うには風を起こして吹き飛ばしていました。そう「蚊」ならば風に弱いだろうと、大名は太郎冠者に扇やうちわであおがせて蚊の精と戦います。この時うちわを使うか扇を使うか、最後に大名が蚊に勝つときの決まり手、負けた「蚊」の退場の仕方などが、「家」つまり劇団によって全部違います。僕は名古屋の和泉流のやり方は知っておりますが金沢で拝見するのは初めてですので、結末は知りません。僕も楽しみに拝見させて頂きますので、日本のユーモラスな吸血鬼と大名との相撲をお楽しみください。
次に能の「蝉丸」について解説させて頂きます。今年は、「大震災」後の「人と人との心のつながり」「心のふれあい」等をテーマに、「絆」 を題材として選曲されたと伺っております。「蝉丸」は「姉と弟の絆」姉弟愛をテーマとした曲です。
最初にあらすじをのべておきます。延喜帝すなわち醍醐天皇の第四皇子、蝉丸の宮は、生まれつき盲目でした。あるとき天皇の家来の清貫(きよつら)は、天皇から「蝉丸を逢坂山に捨てよ」という命令があったので、蝉丸を逢坂山に連れて行きます。家来は蝉丸の髪を剃って出家の姿にして置き去りにします。蝉丸は、琵琶を胸に抱いて涙のうちに伏しまろぶのでした。蝉丸の様子を見にきた博雅の三位は、あまりに痛々しいことから、雨露をしのげるように藁屋をしつらえて、蝉丸を住まわせます。
一方、延喜帝の第三の御子、逆髪は、皇女に生まれながら、逆さまに生えた髪を持ち、狂人となって、諸国をさ迷う身となっていました。都を出て逢坂山に着いた逆髪は、藁屋よりもれ聞こえる琵琶の音を耳に止め、弟の蝉丸がいるのに気づき、声をかけます。ふたりは互いにわびしい境遇を語り合うのでした。
しかし、いつまでもそうしてはいられず、逆髪は暇を告げ、ふたりは別れます。
曲のなかの出来事は、姉と弟の「逢坂山での出会いと別れ」ですが、これは『後撰和歌集』の蝉丸の歌、「これやこの行くも帰へるも別れつつ知るも知らぬもあふさかの関」という和歌の世界の劇化です。この後撰集の和歌には、「相坂の関に庵室を作りて住み侍けるに、行き交ふ人を見て」とありますから、蝉丸が逢坂山に「庵」を作って住んでいた人物であることは、この和歌からわかります。現代語訳すると「これがなんとまあ、京都から他国に行く人も帰ってくる人もここで別れ、前から知ってい人もそうでない人もここで「逢う」という名前を持つ逢坂の関なのだな」となります。「逢坂山」は漢字で書くと「逢う坂のある山」です。「逢う」という名前を持っているからここで「逢う・逢える」という、名前の持つ面白さから作られた言葉遊びの歌です。近い発想だと、僕らの世代ならさだまさしの「無縁坂」という歌があります。無縁坂(むえんざか)は、台東区池之端1丁目から文京区湯島4丁目へ登る坂です。さだまさしの歌は「母がまだ若いころ、僕の手を引いて、この坂を上るたび、いつもため息をついた」というので始まるのですが、「無縁」という名前から「人に縁のない母の人生」を発想して歌の世界を作ったのですね。「後撰和歌集」にも詞書にも、「蝉丸」がどういう身分の人だったかも、なぜ逢坂に住んでいたのかも、どんな職業だったのかも、何も書いていません。現在の和歌研究でも、「蝉丸」という人が「逢坂山」にいたと考えていますが、その身分・職業・出自はいまだ不明とされています。物語作者・能作者にとってみれば「わからない人物」は面白く作ってしまえば良いのですね。能の「蝉丸」では、彼を天皇の皇子という非常に位の高い人物にしました。しかも延喜帝、すなわち醍醐天皇は昔から善政をした徳の高い天皇として知られていました。普通ならその皇子として何不自由のない暮らしができるはずなのに、目が見えないばかりに捨てられてしまう悲しさを加えたのです。
では各場面のポイントとなるところを解説します。まず醍醐天皇の家来が蝉丸を連れて登場します。この登場の時のセリフが「定めなき世のなかなかに憂き事や頼みなるらん」というのですが現代語訳しますと「世の中はいつも変わって行くから、今辛いことが、かえって将来幸福になれるだろうという頼みに思われることだ」という内容です。「所行無常・会者定離」、つまり「世の中は常に変わって行く、会ったものは必ず別れる」が蝉丸のテーマであることが冒頭に示されます。中島みゆきに続いて行くのかなと思いますが。
そして、天皇の家来が「これは延喜第四の御子。蝉丸の宮にておはします。」と醍醐天皇の第四皇子だと紹介します。仏教思想では「輪廻転生」といい、魂はこの世が出来てから世が終わるまで、死後四十九日ごとに生まれ変わるという考え方があります。そして「前の世」前世で善い行いをすると次の世で良いところに生まれる、この世で悪事をすると死後次に生まれる所でひどい目に合う。たとえば三河では「食べてすぐ寝ると牛になる」と言いますが、それは食べてすぐ寝るような怠け者は牛に生まれ変わって耕作とか荷車引きとか辛い仕事をさせられる」という意味です。現在は馬車馬もありませんので、牛になって食べられてしまうのかと思う人もいるようですが。
天皇の家来は、「蝉丸の宮は前世で良いことをしたのでこの世で皇子に生まれることが出来たけれど、赤ちゃんの時から目が見えなかった。醍醐天皇が逢坂山に捨てて出家させるようにという命令だったので、捨てる」というのです。小学生のころ悪いことすると「お前みたいな悪い子は山に捨ててやる」という先生がいましたが、これは子供を山に捨てる「劇」なのですね。家来は蝉丸に山に捨てるのは忍びないけれど命令なのでと言います。蝉丸は「盲目の身と生るゝ事。前世の戒行拙き故なり。されば父帝も。山野に捨てさせ給ふ事。御情なきには似たれども。此世にて過去の業障を果し。後の世を助けんとの御謀。これこそ誠の親の慈悲よ。」と言います。これはいま盲目に生まれたのは前世で仏教を守らなかったからだ。だから醍醐帝が私を山野に捨てられるのは人情がないように見えるけれど、捨てられて辛い目に逢うことで過去、つまり前世の罪の償いをし、後の世つまり生まれ変わった次の人生では幸せになれるようにとのお考えなのだから、これは親の慈悲なのだといいます。いろいろ問題のある考え方ですが、ここは蝉丸が逢坂に住む「劇の上の理由」と理解します。家来が蝉丸を出家させて帰ります。蝉丸と「知る人」との一つ目の別れです。次に、狂言方が勤める「博雅の三位」という人物が登場し、蝉丸に「庵室・いおり」を作って住まわせます。「庵室」は「藁屋」という藁屋根の大道具、能では「作物」で表わし、実際に蝉丸をそこにいれます。能では作物の屋根が藁でできていればぼろぼろの家、きれいな赤い布が巻いてあれば「宮殿」という約束事があります。この博雅の三位は実在の人物ですが、彼には逢坂山に住んだ盲目の琵琶法師蝉丸のもとに通い、秘曲「流泉・啄木」を教えてもらったという伝説が中世には出来ます。ですからここで博雅が蝉丸の世話をするのは、世阿弥時代の能の観客には自然に思われたと思います。そして博雅も去り、また「で逢い」と「別れ」が繰り返されます。
そして次に主人公の「蝉丸の姉・逆髪」が登場します。この姉の登場の時のセリフは「これは延喜第三の御子。逆髪とは我が事なり。我皇子とは生るれども。いつの因果の故やらん。詞「心より/\狂乱して。辺土遠郷の狂人となって。翠の髪は空さまに生い上つて撫づれども下らず。」と述べます。現代語訳しますと、「醍醐天皇の三番目の子の逆髪とは私の事だ、私は天皇の子として生まれたけれども、いつの前世での因縁によるのだろうか、心が乱れ発狂していて、田舎をさすらう狂人となっているが黒髪はさかさまに天に向かって生えており、櫛で梳かしても下に下がらない」と言います。ただし舞台の逆髪はとてもさすらい人とは思えないきちんとした格好です。髪の毛はぼさぼさですが。
逆髪は蝉丸と同様、皇子には生れたけれど「因果」のために宮中には住めず、道を歩いていると子供たちに髪の毛が逆立っていることを笑われます。逆髪は子供たちに、「身分が賤しいお前たちが身分の高い自分を笑うというのは逆さまだ」と皇子の意地を見せますが、順逆が入れ替わる、すなわち逆になるということは面白いと言って以下のように述べます。「夫れ花の種は地に埋もつて千林の梢に上り。月の影は天にかかつて万水の底に沈む。是等をば皆何れが順と見逆なりと言はん。我は皇子なれども。庶民に下り。髪は身上より生ひ上つて星霜を戴く。これ皆順逆の二つなり。面白や。」これを訳すと「考えてみれば花の種は地に埋もれることによって成長して高い梢に花となって咲くし、月の光は高い空にあるが深い水の底にも映る。これらを見るとなにが順でなにが逆であると言えようか。自分は身分の高い皇子であるが、宮中を出て身分の低い庶民となり。髪は身体からより生えて上つて空の星を目指している。これも皆、順逆の二つが逆転しているのだ。面白いことだよ。」となります。「順逆が入れ替わる」ことが面白いとする感覚には、仏教語の「順縁」「逆縁」という考え方があり、それを自然現象・身分の高下などの移り変わりに譬えて説明しようとしているのですね。
能の東北にも「順逆の縁ないやましに」という表現がありますが、順縁・逆縁は物語を作る上での「しかけ」としてよく使用されました。順縁・逆縁を国語辞書で引くと、順縁は「仏語。仏道に入る善事としての縁。仏道に入る縁となる善事。」とあります。逆縁は「仏語。悪行がかえって仏道に入る機縁となること。」です。仏教的には順縁であれ逆縁であれ、悟りを開いて「極楽」に住む佛に成ることができれば「目標」達成です。
蝉丸も逆髪もこの世では、「人間として生まれる前に生きていた世の中」での良い行いのために皇子に生まれたのに、庶民として生活せざるを得ない。だけどこの辛い目に会ったために仏道修行にはげむことになったのなら、それはいやな事つまり「逆縁」により佛になれたということです。この世では幸福で労働をする必要がなく、食べてすぐに寝たが故に次の世で牛に生まれて苦しむことになる人よりも、生まれ変わった時の世界まで考えた長い目で見るならば自分たちはずっと幸せだねという意味になります。
逆髪は都から賀茂川、山科と通り、逢坂についたと謡います。この京都から逢坂までの地名を読み込んだ道行は新幹線並みで、逆髪は京都から三分で逢坂につきます。主人公の逆髪は十寸髪というちょっと眉をしかめたような、ただ端正な顔の面(おもて)をつけています。そして狂い笹といって笹を持ち、唐織脱下といって、和服の片方の袖を外してきていますが、「眉をしかめて笹を持っていて、服が乱れているのに気付かないから狂っている」という約束です。ぼろぼろの装束という設定ですが実際には非常に美しい装束をつけます。また蝉丸も捨てられて庵で質素な生活をしているという設定ですが大口袴をつけた立派で上品な姿です。杖をもっているから目が見えないのだという約束事でできています。
そのころ蝉丸は逢坂の粗末な藁家で「第一第二の絃な」と謡いながら琵琶を弾いています。この「第一第二の絃な」は室町時代当時、琵琶の音色を歌った有名な歌の歌詞でした。それを能の文章に組み込んだのです。能では普通琵琶の小道具は出さないのですが、この謡いだしで蝉丸がびわを弾いているのだなということが当時の観客にはわかったのですね。
逆髪はこれほど粗末な家に素晴らしい琵琶の音がすると立ち寄り聴きます。そして弟の蝉丸の宮の声であることに気づきます。そして「逆髪が来た」ということを告げ「感動のご対面」となります。能の1ジャンルとし、「狂女物」と呼ばれる生き別れた恋人を探す物語の影響を「蝉丸」も受けています。僕は狂女物を大学で教えるときには、「あの人に逢いたい」のようなご対面番組と同じ作り方をしている能の形なんだよと教えています。逢いたいけど逢えない二人の境遇をずっと語り、逢いたい気持ちをインタビューして、「逢いたいですよね・・・いまスタジオにいらっしゃってます!」ということで感動の対面となります。でもテレビでは二人が巡り逢えた場面は三十秒足らずで次回予告かコマーシャルになるのです。
能の場合も「感動のご対面」は見せ場です。ただ姉弟がさすらいの後また会えるかは書かれていませんが、来世では二人とも神佛となって会えると考えられます。世阿弥の生きた時代の三井寺の「寺門伝記補録」には、逢坂の関明神二所として「蝉丸」と「逆髪の宮」が祭られていたことがわかっております。能「蝉丸」は、神仏が神仏に生まれ変わる前、人として生きていた時の物語として作られたと考えられます。
テーマとしては深刻なものや、輪廻転生・諸行無常・順縁・逆縁など漢字ばかり並びますが、能は劇ですから、あくまでも上品に美しく演じます。
この世では「出会い」そして「別れ」という悲しい目にあっても、みんなこの世から生まれ変わり神仏となった世界ではまた逢える、この世を越えた長い時間での「絆」を美しく描いた名作です。僕も楽しみに拝見させて頂きます。皆様最後までごゆっくりお楽しみくださいますよう。ご清聴ありがとうございました。
2012年8月8日 世阿弥忌です。奈良では世阿弥忌セミナーが行われていますが今日は校務に励みます。4-6月までの韓国研修のまとめも出来ていませんし、頼んで頂いた原稿も。。椙山で行われている教員免許の更新講習に本学出身の佐屋高校の杉浦先生と大府高校の神野先生がいらしてくださいました。二人とも僕のゼミも受講してくださいましたが。。久しぶりに本学に来られるときミクシィからメッセージ頂けて嬉しかったです。お昼休みにちょっとお目にかかること出来ました。二人とも熱心な先生であるとともに良いお母さんで。。僕もいまはかえって教えて頂くこと多いです。でも教え子が更新講習に来る年になったのかと。。感慨もありますが。。更新講習に母校を選んで下さったのは感謝ですし、教え子が、その教え子に椙山を勧めて貰えるように僕の講義も授業料の中なのですから、きちんとした講義しなければと思います。では調査に戻ります。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年8月7日 橘香の原稿まだ出来ません。梅若実日記の登場人物の索引や分析は、早稲田大学や武蔵野大学の研究グループによりかなり進展しているのですが、本学図書館にはないので、そこは諦めてデジタル化させて頂いた写真の第一報として出します。デジタル化させて頂いた明治30年代後半の梅若家の能の写真、どれもかっこいいです。きちんと整理して分析したいです。まだ時間かかりますが。明日は世阿弥忌セミナー。行けませんが、プリント欲しいです。。名古屋以外の学会、本当に行っていないなあと思います。頂いた研究費、資料の収集と整理・デジタル化につかわなければ、定年までに間に合いません。明日は奈良ですから校務がなければ伺えますが、校務複数ありますので。今日も出来ること頑張ります。暑いですが皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年8月2日 名古屋は猛暑です。比呂人が生まれた朝も暑かったなと。。明日は友恵の誕生
日。二人とも顕微授精で授かった子供たちで、自然には僕たち夫婦に子供が出来ることはなか
っただけに感謝です。比呂人にも友恵にも周囲に感謝して、長生きして人生を楽しんでほしい
です。子供たちにとって双方の祖父母が元気で感謝です。10時には僕の両親の家に挨拶に行っ
てプレゼント貰うのだと言っていましたが。。
今日は橘香に寄稿文の場所頂いたのでそのための調査です。
夕方から教育学部の渡辺康先生、メディア情報学科の脇田泰子先生と科学研究費申請のための
打ち合わせです。渡辺康先生が研究代表者で「第二次世界大戦前後のフランスの日本音楽理解
」です。昭和27年、秋マルセル・ジュグラリスが亡妻エレーヌ・ジュグラリスの遺髪を入れた
「エレーヌ夫人羽衣の碑」を建て、その除幕式に二代目梅若万三郎が能の羽衣を舞います。エ
レーヌ・ジュグラリスはフランス人の舞姫で、能にあこがれ、観たことのない能の再現を志し
ました。そしてSPレコードの謡曲羽衣・写真など僅かな資料から自作の長絹も作り、歌劇ハゴ
ロモを作っり昭和24年前後ギメ美術館などフランス各地で行いました。歌劇ハゴロモは当時の
フランス人に「日本的」と感じられたのですが、不幸白血病で能も三保の松原も観ることなく
35歳で没します。その楽譜の一部が夫のマルセルより静岡市に寄贈され、研能会八田達弥先生
との共同調査を経て静岡市より楽譜コピーの提供を頂きました。楽譜はソプラノ・フルート(
笛)・パーカッション(鼓)のパートに分かれています。フランス語で細かく注が付いています
。歌劇ハゴロモの音楽部分を作曲家の渡辺康先生、フランス文化とジャーナリズム専攻の脇田
先生で楽譜を整備して再現して頂きます。そしてフランス人にとってどのような旋律が「日本
的」であったのかをこの楽譜や同時代のフランス人作曲家が「日本」をテーマにした作品と比
較しつつ「音楽的」に明らかにするのがメインテーマです。明治期のフランス音楽と東洋・日
本との関係については川上貞奴のフランス公演などを中心に先行研究がありますが第二次世界
大戦前後については研究が薄いです。フランスでのエレーヌの活動やフランス人作曲家の日本
音楽の受容の現地調査は渡辺先生・脇田先生の担当です。僕は能楽雑誌や新聞から第二次大戦
前後の日本人芸術家の「洋行」の記事を調査し、現地でどのような公演をしていたのかを「研
究分担者」として行います。日本国内では戦前はラジオでもドイツ歌曲が圧倒的ですが、韓国
では京城日報見ても音楽会でフランス音楽が演奏されることありました。敵味方というのが、
実は結構複雑で、ドイツ占領下のフランスでは、枢軸国側の軍隊に加わってドイツ兵として戦
ったフランス人もかなりおり、その意味でフランスが「友邦」だったからなのですが。。京城
日報読んでいると相当の数の「慰問団」の芸人が笛や鼓持って韓国や満州出入りしています。
こういった日本からの芸人が植民地やヨーロッパにもたらした内地の日本人がみたら全然日本 的でないものが「日本的」と言われていた可能性が否定できないので。40年前、父はたまに研 究打ち合わせに家族連れていってくれました。昭和の頃の研究打ち合わせは飲み会が多かった のです。今日は昭和風にとりとり亭星ヶ丘店で家族同伴で行います。僕は禁酒しますが。この
研究計画がうまく行ったら、歌劇ハゴロモの音楽バックに八田達弥先生に羽衣舞って頂きたい です。皆様お元気にお過ごしくださいますよう。
2012年8月1日 8月になってしまいました。猛暑ですが、やりたいと思っていた仕事が進まず、こんなので良いのだろうかと思うと落ち込みますが落ち込んでいるだけで進まないので益々落ち込むと言う悪循環で、しかたないから娘の好きな少女時代聞きながら日記書いていると言う人から見ればひまじんの極致だろうなと思いますが。。橘香8月号に寄稿依頼頂いています。10日前後締め切りで2000字です。今年度研究費で研能会の八田達弥先生に間に立って頂いて梅若万三郎先生の許可頂いてデジタル化させて頂いた乾板写真について書きます。岩崎弥之助が梅若家の例会に写真家派遣して撮影したもので、万三郎・六郎以外の梅若家例会のメンバーや狂言方・脇も撮影されており、きわめて貴重です。ただ明治期の能楽はじめ雑誌の口絵の多くが万三郎・六郎といったスター中心に編集されているためにここに映っている役者が誰なのか特定が難しいのですね。「梅若実日記」の例会記録から各演目の上演日と役を特定し、人物を比定する必要があります。出来るところまでしか出来ませんが、挑戦したいと思います。皆様お元気でお過ごし下さいますよう。
2012年7月27日 今年度放送文化基金で元CBCディリレクター松谷敦先生御所蔵のラジオドラマ台本をデジタル化しています。作家の著作権がのこっているためスカイドライブをもちいて研究者に限定公開しています。野菜と肉は夕食で採ることにして昼飯は今日も総菜パンです。倹約して韓国に家族旅行行きたいです。3時半に松谷先生に先週拝借した台本をお返しして、来週デジタル化する台本3冊お借りします。1週間にスキャンして整理できる台本は5冊が限界です。自分の能力を考えて少しずつ拝借して確実に行いたいと思います。今日は夕方豊田能楽堂に金春流スクエアの土蜘蛛を拝見に行きます。それを楽しみに仕事頑張ります。暑いですが皆様お元気でお過ごし下さいますよう。
2012年7月25日 帰国してもうすぐ一カ月、三か月の研修も終わるとあっという間でしたが、帰国してからもあっという間です。まだ研修の報告書など残務処理が続いています。事務処理能力のなさにため息ですが、今日はとりあえず「海外研修報告書」だけでも書きあげたいです。皆様お元気でお過ごし下さいますよう。
2012年7月19日 今日は午前中健康診断でした。体重が増えてしまったので。。反省です。痩せねばと思います。放送文化基金経過報告書、愛知県史研究など書かねばならない原稿たくさんありますが手間が悪くて進みません。明日は松谷敦先生に拝借しているラジオドラマ台本のデジタル化を行います。頑張ります。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年7月12日 今日は午後2時から名古屋市文化振興事業団で、名古屋文化情報に「民謡の魅力」という記事を投稿するためにプロデューサーの東彰治氏のインタビューを行います。投稿する記事の構成や必要な写真・資料などお願いすべきものを書き出して準備しています。インタビューって後から「聞いておけばよかった」こと多いので。昨日も長谷川淳基先生にごちそうになってしまったのですが、韓国研修にいった4月から今に至るまでお酒の量と食べる量が多くなり反省です。研修中に背伸びしたらベルトのバックルが壊れたのですが、危険信号なのにごはんがおいしくて減らせませんでした。。今月の目標は67キロまで落とすですが。。夏休み終わりまでには研修前の65.5キロまで落としたいです。韓国研修に出かけて韓国が大好きになりました。学生や家族連れてまた行きたいので、そのための準備もはじめています。みなさまお元気でお過ごしくださいますよう。
2012年7月11日 昨日は留学生の講義で椙山高校卒業生の華房小真先生に端唄・小唄を教えて頂きました。模範演奏として「春は嬉しや」「恋の紐」「名古屋甚句」ほ演奏して頂きましたので華房先生模範演奏のページより公開致します。粋でよかったです。華房先生と指導のボランティアでいらしてくださった華房先生門下の椙山の卒業生の方々に心より感謝致します。留学生の方々が、帰国後名古屋にはこんな「粋な芸」があったんだよと、「模範演奏」のページみて国の後輩に説明してくださるといいなあと思っています。今年は前期の研修の関係で長唄や日本舞踊の体験は出来ません。留学生講義の小唄・端唄と仕舞・能装束体験のみになりますが、名古屋の伝統芸能の魅力を伝えるために一歩でも前に進むことが出来ればと思っています。。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
1212年7月4日 家内がまとめてくれた「研究業績書」アップロードしました。論文ようやく100本越えました。小西甚一先生や芳賀登先生など学生時代あこがれた先生には質も量も到底かないませんが、紙一枚資料を持たない家に生まれて、数多くの方に支えて頂いて、なんとかこれだけは仕事出来たこと感謝致します。知命を越え、定年までに書けて100本だろうと思います。ならば韓国研修の成果が生きるように、「日本学」を見すえて、学問の目的の「総合性」とその中での「緻密さ」を考えつつ、きちんとした信用していただける仕事したいと思います。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年7月2日 今日は東海能楽研究会の例会案内の印刷・発送準備、山根先生との共同研究の原稿見直し、謡曲ソノシートを研究資料として提供下さる方への連絡、留学生科目で椙山高校卒業生の華房小真先生に名古屋甚句を教えて頂く準備などが主な今日の課題です。でもまず運転免許の書き換えに朝行きます。一旦停止義務違反で減点されているため、青免許になります。違反・事故に注意します。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年6月30日 昨日夜帰国いたしました。韓国研修、とても楽しかったですし、勉強になりました。前回平成十七年の大阪大学での国内研修では、天野文雄先生の研究室で「演劇」として能を分析する「方法」と「ラジオ放送が芸能をどのように変えたのか」を音源のデジタル化と新聞記事から検証するという方法を身に付けたように思います。『近代能楽史の研究』という拙著と放送文化基金を得て行っている研究に方向づけられました。今回は「近代」芸能史を考える上で「植民地の文化」というものを位置づけるべきではと言う関心で行きました。韓国で催した能・長唄会などの新聞資料は多く収集することが出来、感謝でした。これを分析するには、まだ時間かかると思います。「講義」で学生に還元できるよう頑張りたいと思います。血圧の薬と肝臓の薬が無くなったので医者に行ってから出勤します。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年3月31日 今年度も今日で終わります。明日から6月29日まで韓国翰林大学日本学研究所で国外研修をさせて頂きます。研究成果が講義と社会に還元できるように頑張りたいと思います。このページの更新遅れるかもしれません。連絡はerito7@hotmail.comかフェイスブックの飯塚恵理人にお願いいたします。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年3月29日 昨日帰国し、今日明日と韓国研修の最終準備です。ハードディスク故障など「不測の事態」も起こりましたが、頑張ります。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年3月26日 今日夕方から二泊三日で家族で韓国に家族旅行に行きます。僕の研修先の下見が主目的ですが楽しんできたいと思います。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年3月25日 今日は金山の中京大学文化市民会館で行われる西川古都社中の若竹会に伺います。ゼミ卒業生の西川古瑛さんが京人形を踊られるので楽しみです。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年3月23日 あっという間に来週は韓国です。今日も準備に励みます。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年3月21日 今日は安田文吉先生の科学研究費の報告会が津市の石水博物館でありますので伺います。元和年間の奥書を持ち、ワキ方の所作や囃子に関する書込みのある資料価値の高い観世流謡本がありますので、それに関して発表したいと思います。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年3月16日 今日は明日神戸女子大学に預かっていただく資料入りハードディスク作成と研究室の模様替えです。アルバイト学生さんたちに研究室で作業して頂けるように、研究室の本を持ち帰り、作業に必要なもののみにします。基本的に本とコピー資料はすべてスキャンして廃棄します。研究室にも自宅にもたくさんまだあるので、身辺整理にはあと二三年かかりそうです。定年の時に狭い我が家にはどうせ持ち帰れませんし、年のせいか重い辞典類を出し入れすると疲れます。定年後は比呂人や友恵が釣りの出来る老人ホームに入れてくれそうですが、持って行けるのも今回の韓国研修と同じくノートパソコン一台でしょう。老後のためにも、すべて作業はノートパソコン一台で出来る研究環境を作りたいです。
2012年3月15日 今日は卒業パーティです。来年度は残念ながらゼミ生がいないので、二年分お祝いして来たいと思います。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年3月14日 今日は椙山女学園大学の卒業式です。卒業生全員の御多幸とご活躍をお祈りいたします。
2012年3月7日 今日は大学で歴代の卒業論文の整理と、会議です。終わったら同僚と打ち上げに行きます。焼き鳥楽しみに頑張ります。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年3月7日 今日は会議等がないので出勤せず、一日自宅に引きこもって論文の執筆と放送文化基金の報告書執筆に専念します。季節の変わり目のせいなのか、年のせいか体がだるいです。無理せずに頑張ります。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年3月6日 今日は学科会議です。教務委員としての仕事の引き継ぎを、四月から六月まで不在にするだけにきちんと行わないとと思います。昨日西村高夫先生に録音して頂いた養老の音源の公開と、「橘香」への寄稿文の執筆、放送文化基金報告書の執筆なども課題です。一つずつこなして行きたいです。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年3月5日 今日は西村高夫先生に椙山にいらしていただいて、謡曲録音をお願いします。これから七月までに養老・高砂・望月・松虫の録音をお願いします。楽しみです。また今日は森本伊知郎先生の一周忌です。墓参等は出来ませんが、一日、彼を偲んで暮らしたいたいと思います。お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年3月3日 今日は名古屋能楽堂定例能に伺います。長田先生の隅田川楽しみです。
2012年3月1日 今晩の芳賀登先生のお通夜には家内が参列させて頂きます。今日は卒業判定教授会、昨年急逝された森本伊知郎先生が最後に出られた教授会だったなあと。。研究熱心で教育熱心な真面目な先生でした。亡くなった芳賀先生の研究方法や森本先生の志は縁のあった弟子や仲間が引き継ぐべきもので、僕も教えて頂いたことを大切に教材作成に励みます。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年2月27日 今日は昼過ぎに県史編纂室で最終校正、夕方から椙山で能楽古文書読書会です。午前中は東海能楽研究会の年報投稿原稿の見直しです。がんばります。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。と書いたら先輩から芳賀登先生の訃報を知らされ呆然としております。訃報 芳賀登先生 筑波大学名誉教授 日本近世史 元 日本風俗史学会会長 通夜3/1 6時より 告別式3/2 午 前11時セレモニーホール永田屋 セレモニーホール永田 屋 神奈川県相模原市緑区橋本8-1-1 電話042-772-2554 ファクス042-773-2565http://www.e-nagataya.com/image/topimage/nagamap.htm
2012年2月26日 今日比呂人は町内ソフトボールの最後の練習試合に誘ってもらい、出かけて行きました。受験のための塾と重なるので六年の春にやめましたのでメンバーではないのですが、受験が終わり、最後だからと誘っていただけたのです。末広ソフトボールの皆様に感謝です。僕は東海能楽研究会年報の原稿を仕上げなければと思います。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年2月25日 今日は御園座の昼の部の観劇に行き、その後家族と共に筑波大学同窓会に出席します。楽しみです。
2012年2月23日 今日から愛知県図書館は3月8日まで休館です。そのあいだは大学図書館の本を使用して、橘香への投稿原稿と国外研修の準備をします。頑張ります。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年2月22日 「愛知県史研究」の七月締切の号に明治から戦前にかけての愛知県の三曲の歴史を書きたいと思い、愛知県図書館の雑誌「三曲」を集中的に調べています。昨日は戦時中の記事について調べました。軍部の言う「国民精神」に迎合するように見えて、「お祝い」や自然の美しさを基調にした歌詞を作り、象牙なども代用品で楽器を作るなど、当時の筝曲家はかなり「しなやか」でしたたかだなあと感心しながら調べています。今日も愛知県図書館に行く予定です。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年2月21日 今日は医者に行った後に雑誌「三曲」調査予定です。能・狂言でも起きていた昭和初期のラジオ放送・蓄音機レコードによる階級を越えた愛好者への普及と、流儀内での全国統一、「家元」の東京一極集中が三曲ではどのようになっているかをプログラムから検証するのが目的です。夕方は山田学園さんに日本風俗史学会の中部支部役員会に伺います。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年2月20日 記憶力が落ちているため、資料は全部コピーではなく、論文に引用する予定のページのみ義准支援室の複合機でスキャンさせて頂いて自分のアドレスに送っています。今日は次に執筆する予定の「養老」の作品研究用資料をスキャンしました。明日は医者に入った後、愛知県図書館で三曲調査の予定です。がんばります。。皆様お元気で。。
2012年2月19日 今日は愛知県図書館で雑誌「三曲」の調査をします。韓国での国外研修に備えてです。今朝も寒いですが頑張ります。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年2月18日 今日は知り合いにチケット頂いて関西観世花の会に伺いました。年配の方が多かったのですが、野村又三郎さんの梟山伏、山伏がほーーんと鳴く場面で、笑い声ではなく大きな拍手が起きたのに驚きました。確かに拍手したくなる名演でしたが、狂言では終曲の時以外拍手はないと思っていたので。。こういう「例会」の観客でも以前からの観客とは違う「観劇」に来ている人がかなりいるのだと思いました。面白かったです。あと「小鍛冶」の前野郁子先生、きびきびしていて若々しい小狐でよかったです。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年2月17日 今日は午前中は愛知県図書館で雑誌『三曲』の調査、午後大学で東海能楽研究会の会報発送準備をします。国外研修を前に可能な資料は収集してコピーをスキャンしておきたいです。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年2月16日 今日は研究室の教育番組古典芸能関係ビデオ資料の整理を豊橋の能楽部の卒業生さんに依頼するため、大学を休んで豊橋に行きました。無事に依頼して帰宅しましたが。。最近特に記憶力が怪しいので帰宅後も資料のスキャンに励んでいます。紙の紛失は非常に多いので、スキャンして添付で自分あてメールで送ってあるものが一番安心です。これ以上記憶力がよくなることはないので、記憶力が落ちること前提に対策立てたいです。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年2月13日 今日は再試手続き二日目で最終日です。はやく手続して欲しい学生がまだなので気をもんでいます。来年また受講するのは大変なのに。。忙しいのはわかるのですが。きちんと勉強して受けて欲しいです。。
2012年2月13日 今日は後期の成績発表です。再試の学生はきちんと手続きして欲しいです。昼に能楽部の学生と懇親会(昼食会)、その後に放送文化基金の報告書執筆です。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年2月11日 比呂人が中学生になるのに伴い、二階の二室をそれぞれ比呂人友恵の勉強部屋にすることにして、下の本棚を運んだり準備をすることにしました。なかなか大変です。
2012年2月10日 今日は夕方から基盤系の懇親会があります。それを楽しみに会議と報告書作成に頑張りたいと思います。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年2月9日 放送文化基金の報告書、東海能楽研究会の年報、など書かねばならない書類が山積みです。一つずつ片付けたいです。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年2月7日 採点が終わりましたので、勉強したいと思います。石水博物館に関わる科学研究費の報告書作成から取り掛かります。今日、故森本伊知郎君のご遺族から森本君の戒名と墓地を教えて頂きました。戒名は「緑山伊然居士」で墓地は「多磨墓地25区1種46側」だそうです。墓石には「森本家」と書かれているとのことでした。緑の山が大好きだった森本君らしい戒名だなと思います。東京に行くことがあったら墓参させて頂きたいです。慶応学派の緻密な考古学者でした。心よりご冥福をお祈りいたしますとともにご遺族の幸せをお祈りいたします。彼の緻密で厳格な研究の後継者が育つことを祈ります。森本ゼミから僕の研究室に移った学生が、森本君のスピリットを継承してきちんとした卒業研究をして任期付ではありますが公共図書館の司書に就職が決まったのは嬉しかったです。森本君に陶芸の事や焼き物の産地などいろいろ教えて頂いたことに感謝しつつ椙山できちんとした講義をしたいと思います。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年2月6日 今日は母の誕生日です。元気で感謝です。
2012年2月5日 今日は熱田教会の教会学校に参加して、それから僕は石水博物館調査、友恵は長田先生の能楽子ども教室に行きます。今日は五年前に脳溢血で亡くなった筑波能狂言研究会の同級生の高田みずきさんの命日です。長女さんは今年大学受験と伺っています。御主人のホームページです。本当に頑張っていらっしゃって、世の娘を持つパパの鑑で敬服しております。高田さんのご冥福を心よりお祈りいたしますとともに、娘さんの合格をお祈りいたします。皆様お元気でお過ごしくださいますよう
2012年2月4日 今日は土曜日でしたが入試関連で業務があり出勤しました。明日は非番ですので熱田教会の教会学校に参加して、それから僕は石水博物館調査、友恵は長田先生の能楽子ども教室に行きます。明日は五年前に病気で亡くなった筑波能狂言研究会の同級生の高田みずきさんの命日です。長女さんは今年大学受験と伺っています。高田さんのご冥福を心よりお祈りいたしますとともに、娘さんの合格をお祈りいたします。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年2月3日 今日から日曜日まで椙山女学園大学は一般入試Aです。雪が降りませんように。受験生が風邪を引かず、力を出し切れますように。
2012年1月31日 比呂人が愛知教育大学附属岡崎中学校に合格しました。息子が後輩になるのは本当にうれしいですし、感謝です。
2012年1月27日 採点と身辺整理です。段ボールあけると三十年近く前の資料が見なかったままたくさん出てきます。もったいないと思いつつ、使わない方がもっともったいないのだとスキャン用に裁断していました。アルバイトお願いしている楳山さんによると昨年からスキャンして廃棄した冊数は1400を超えているそうです。でもまだ倍近くあります。僕はどれだけ使わない資料もっているのかなと怖くなります。映像と音源は今日コピーして月曜日に愛知淑徳大学非常勤講師の田崎未知先生にお預けします。明日は自宅で論文執筆します。みなさまお元気で。。
2012年4月25日 書かねばならない書類が多くて疲れ気味です。今日は重役出勤します。でもがんばります。
2012年1月24日 昨日までで全講義が終わり、今日から試験期間です。教員にとっては教えたことが学生に定着したか、学生にとっては受講したことが身に着いたのか成果が問われる期間です。採点頑張ります。今日は教務委員会です。きちんと勤めたいです。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2011年1月22日 今日は文化のみち二葉館で東海能楽研究会例会でした。佐藤和道さんの早稲田大学安田文庫所蔵の近世の豊橋の囃子会番組の発表、出演者の身分など分限帳等でよく調べてあり、とても興味深かったです。吉田藩の家老を勤めているような重臣が番組に登場するのですが、近世の「藩士」と能楽との関わりについて考えさせられました。城下の寺院が会場で、ほとんどが囃子と狂言です。囃子と狂言ならば、高価な装束を用いるわけではないから奢侈禁止令が繰り返し出ている中でも藩士が稽古して良かったのかなと。。。能・狂言ならば歌舞伎などのように遊里を題材にはしていませんし。。近世の地方の能のあり方を考えさせる良い発表でした。良い若手が育っているなあと思います。良い刺激になりました。僕もきちんと調べたいと思います。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年1月21日 今日は豊田能楽堂定例能でした。狂言共同社の「三本柱」と観世銕之丞の「養老」で、僕は開演前の15分の解説と、イヤホンガイドを担当させて頂きました。こういう仕事は何より能を拝見できますし、勉強になりますので非常にありがたい仕事です。以下、事前解説原稿とイヤホンガイド原稿の当日準備したものを、この通りには出来ませんでしたが揚げさせて頂きます。まず事前解説原稿は以下のとおりです。
ただ今ご紹介に預かりました椙山女学園大学の飯塚と申します。お隣の安城市より参りました。ここで解説させて頂いた歴代の解説者の中でも、一番近い部類ではないかと思います。どうぞよろしくお願いいたします。今回は新しい試みとして、能「養老」の時にイヤホンガイドをさせていただきます。こちらもよろしくお願いいたします
順番としては狂言の「三本柱」が先になるのですが、まず能の「養老」から解説させて頂きたいと思います。養老の滝に酒の泉が出たという話は十訓抄、古今著聞集という説話集に載り、鎌倉期には成立していたことが確実です。「養老」の話は「地名起源説話」で、この土地がなぜ養老と呼ばれるようになったのかという話です。ここで注意しなければならないのは、日本古来の考え方に、「伊勢物語」に「道行く川の蜘蛛手なれば、橋を八つ渡したればなむ八橋と言ひける。」とありますが、ある土地やものにある事がおこり、それに基づいてそのものの名前が決められる、また「名は体を表す」とおり与えられた名がそのものの性質や運命を表わすという考え方があります。昭和の漫画の世界にも、東大通君だったら東大に現役合格する学生であり、一堂零君は、クラスの朝礼であいさつをする級長の名前であるように、名前がその本質を表す、この考え方を「名詮自称」(みょうせんじしょう)といいます。能の「養老」も同じで、「養老」の地、つまり「老人をよく養った場所」であったから「養老」という地名になったということになるのですが、老人を養うために何が良いものがこの土地にあるんだろうか。なにがあれば嬉しいかと大学の講義で学生達に聞いてみました。すると長生きによいものだからということで、いろいろ案が出たのですが、多かったのは温泉と薬でした。「養老」の筋からいえば「薬」が正解で、薬というのはお酒になります。現在では飲み過ぎの害の方がよく言われますが、「酒は百薬の長」でもあります。狂言の「木六駄」で、雪の中、十二頭の牛を曳いてきた太郎冠者が茶屋で「茶どころではな」く酒が欲しいと言いますが、これは身体を温めたいからです。酒は身体を温める食べ物で、今ほど暖房が発達していない頃は「寒さ除け」「冷え対策」に飲むということがかなり多かったのです。今から三十年ほど前、僕は大学の学生でバス・トイレ共用の長屋に住んでいましたが、寒い日に枕元を見たら昨日飲み残したコーヒーが凍っていて驚いたことがあります。寝袋の中に入ってその上に布団かけて寝ていたのです。今この話をすると、子供達に「どうして暖房つけなかったの」と言われますがエアコンなんて当時貧乏学生に買えるものではなかったのです。このころの僕は寒いとき「養命酒」を飲んでいましたが、冷え症にはけっこう効いたように思います。平成生まれの学生さんにはバス・トイレ共用の長屋って、想像できないみたいですが・・・
それでは物語の筋にそって「養老」を解説していきます。
最初に身分の高い家来が勅使、天皇の使いとして登場します。そして美濃の国本巣郡、現在の本巣市ですね、そこから不思議な泉が湧き出たと報告があったので、天皇の命令でこれから見に行くのだと言います。現地から報告があったので、それを見て報告する、この天皇の使いの役は、今でいえば現地視察をする行政官です。天皇のお使いが養老の滝に着くと、現地の若者と老人が登場します。老人『長い年月、美濃の山に澄んでいるのだが深い水が緑の色を称えているように松も栄えて緑色であることだよ。まだ元気で長生きできることだ』と訳しますが、さらに「岩井の水は薬にて」と、ここに薬の水があることを謡い、それゆえに「なほ行く末も久しけれ」と長生きが出来るというのです。天皇の使いは「あなたは都で聞いてきた親子ですか」と老人と若者に声をかけます。そして自分が天皇の使いであることを名乗り、この場所を養老と名付けた理由を尋ねます。老人は、ここにいるのは自分の子供で、朝夕、山で薪を取り、自分たち親を養ってくれているのだが、山で疲れたのでこの水を掬って飲んだところ普通の水とは違い、心も晴れて疲れも取れて、仙人の家にあるという薬の水もこのようなものであろうかと思ったので、汲んで帰宅し、両親にすすめたと言います。親にも上げようと思ったから偉い子供ですね。そうすると朝起きるのもつらくなく、夜眠れなくてつらくなくということで、元気になった。マムシ酒か栄養補助食品の広告みたいですが、老いを養い元気にするので養老の滝と言うのだと言います。
天皇の使いがその水は滝のどこから出るのか老人に尋ねます。老人は滝壺の少しこちら側の岩の間から出る水なのだと教えます。七百年前にも旅行クイズ番組があったら、その問題VTRにありそうな場面ですね。そしてこの薬の水を汲んで称えていると、突然空から花が降り音楽が聞こえてます。寺院の仏像・仏画の中に楽器を持った天女や仏がよく書かれていますが、仏教の極楽でも神道の高天原でも歌舞の菩薩や天女によって音楽が奏でられていると信じられていました。ですから天上・極楽から神仏が地上に現れる場合には前触れとして空から美しい花が降り、音楽が聞こえ、良い香りがすることになっています。「羽衣」で天女が三保の松原に現れ、羽衣を松にかけて水浴びをしている時に漁師が「虚空に花降り音楽聞こえ、霊香四方に薫ず。これただ事と思わぬところにこれなる松に美しい衣かかれり」と言います。虚空に花が降り、音楽が聞こえ、良い香りがすることが天女が現れる前触れ、もしくは今いることを示すわけです。
実は、通常の「養老」の舞台では「楊柳観音」の言葉は謡には出てきますが、天女は舞台に出ません。今日は小書「水波之伝」という演出が付いておりますので、楊柳観音を実際に天女の姿で登場させて舞を舞わせます。この演出は観世元章という江戸時代中期の観世太夫が考えた形ですが、舞台効果の面からも本文を視覚化して分かりやすくするという意味で優れた演出だと思います。
天皇の使いの前に現れた天女は楊柳観音の化身であります。能の世界は中世の仏教思想を下敷きにしていますが、中世の日本では神と仏は同じ存在で、その状況に応じて姿を変えて現れるものと考えられていました。ひらたく言えば、神と仏は変身と分身が出来るのでいつでもどこでもどんな姿ででも出ることができるのですね。だから仏が神の姿で現れることも、神が仏の姿で現れることも出来ると考えられていました。これを「本地垂迹」と呼ぶのですが、この考え方は長く続き、神と仏は別の存在であると全国的に考えるようになったのは、慶応4年、1868年3月28日、明治維新政府が神仏混淆を禁止し、寺院と神社を分離するように命じた神仏判然令以降です。
本曲のテーマは「養老」です。「老いを養う」という名前の場所で「薬の水」が湧く場所を守る観音ですから、人々が健康で長生きできるように守る仏です。奈良の大安寺にある、天平時代の重要文化財楊柳観音像の説明をホームページから引用致しますと「観世音菩薩は、三十三身に変化し衆生を済度するといわれていますが、その表現される像容の種類も多いと言えます。楊柳観音もその一例で、手に柳の枝を執るので、こう呼ばれています。おそらく柳葉が風になびくように衆生の願いを聞きたまうということであると思われます。又、楊枝など口内を清浄にすることから、病魔の侵入を防ぎ健康を保つ。口業を清浄にする等の願いが込められてきました。」とあります。楊枝を持っている観音像ですから、養老との関係でいえば、「食事の後は歯を磨こう。長生きはお口の健康から」という姿と考えて良いだろうと思います。天女の後には山の神が現れるのですがこの山の神は走り天冠の頂きに「芍薬」をつけています。芍薬はネットで調べてみますと薬草で、漢方薬の材料になるのですね。製薬会社のホームページから引用させて頂きますと、「芍薬甘草湯(しゃくやくかんぞうとう)」という名前です。この名前は、漢方の原典である『傷寒論(しょうかんろん)』に記載されている漢方薬で、急激におこる筋肉のけいれんを伴う疼痛や、「下肢のけいれん性疼痛(こむらがえり)」、「胃腸の激しい痛み」等に用いられています。その会社によれば「体力に関わらず使用でき、筋肉の急激なけいれんを伴う痛みのあるものの次の諸症:
こむらがえり、筋肉のけいれん、腹痛、腰痛」に聞くのだそうです。この山の神は「痛みを取る」薬草の姿をして現れていることになります。謡曲本文に「我はこの山山神の宮居。地「又は楊柳観音菩薩。シテ「神といひ。地「仏といひ。シテ「唯これ水波の隔にて。地「衆生済度の方便の声。とあり、自分はこの山の神だが、ある時には変身して楊柳観音として現れる、ある時は神と呼び、ある時は仏と呼ぶのも実は同じものを水と呼んだり波と呼んだりする程度の違いであり、姿が違うのは人々を救う手段なのだという意味になります。「水波之伝」という小書の名前はこの文から取られたものです。山の神は颯爽と舞を舞い、治まった平和な世の中を祝福してこの曲は終曲を迎えます。
次に狂言の「三本柱」の解説に移ります。裕福で新しい建物を作ろうとする男、主人がおります。裕福であるということで、お米やら銭やら、その他金銀財宝をいっぱい持っていて置き場に困るから新しく建物が必要になったので、今なら「絵画や骨とう品をたくさん買い集めて置き場がなくなったので専用の別荘を買おうとするリッチな男」という所でしょうか。この主人が太郎冠者ら三人の家来に、「建物の柱にする木を三本、山に切り出して置いてあるから取ってこい。ただし三本の木を一人で二本ずつ持ってくるように」と命令します。これは一種のパズルです。三本の木は普通三人なら一人一本ずつ、二人が前後に立って両手に一本ずつ持てば、その二人は一人が二本持つことになりますが、残りの一人は一本しか持てません。さあ困りました。しかし太郎冠者たちは見事に答えを見つけて、その通りにし、歌いながら木を運び込むことができました。主人も大喜びで祝います。この背景には新しい建物を作る「普請」というものがめでたいものであり慶事であるという考え方があります。昨年は大震災があり大変な年でした。今年は「養老」のように良い薬がたくさんもたらされてみんなが健康で平和で長生きでき、「三本柱」のように新しい建物がたくさん建って景気も回復して学生の就職もたくさんある良い年となることを祈っております。最後までお楽しみくださいますよう。御清聴ありがとうございました。
次にイヤホンガイドの原稿を挙げさせて頂きます。
「養老」イヤホンガイド原稿
笛、小鼓、大鼓、太鼓の囃子方が楽器の調子を調える、お調べが聞こえて参りました。まもなく開演となります。最初に、あらすじを述べさせていただきます。
まず今の天皇に仕える臣下、家来が登場し、美濃の国、岐阜県本巣郡に不思議な泉が出たと報告があったので、天皇の命令によって見に行くと述べます。天皇の使いが養老に着くと、滝のそばで老人(シテ 主人公)と若者(シテツレ)に会います。家来が老人に泉について尋ねると、この若者は自分の子供だが、朝夕山仕事をして自分を養ってくれている。ある日この泉の水を飲むと常の水と異なり、心がさわやかになり、疲れがとれたので、すぐにそれを汲んで両親に与えたところ、朝も気持ちよく起き、夜眠れなくても淋しくないので元気になったと言います。家来は喜び、そのことを天皇に報告しようと言います。すると、天女姿の楊柳観音が登場し、この天皇の世を守ろうと述べ舞を舞い、さらに後半の主人公である養老の山の神が登場して颯爽と舞を舞い、国土を祝福します。そしてこの平穏な世の中がいつまでも続くであろうと述べて姿を消します。
幕を片方のみ開けて、囃子方が登場いたします。笛・竹市学(たけいちまなぶ)、小鼓・後藤嘉津幸(ごとうかつゆき)、大鼓・河村真之介(かわむらしんのすけ)、太鼓・加藤洋耀(かとうひろき)の各師となります。舞台向かって右側の切戸口から、本曲のコーラスを担当する地謡の方々が登場します。本日の地謡のリーダー、地頭(じがしら)は浅井文義(あさいふみよし)師が勤められます。
「真ノ次第」の囃子で、脇の天皇の家来が登場致します。ワキ方の役で、森常好(もりつねよし)師がつとめます。同行の家来を梅村昌功(うめむらまさよし)師と森常太郎(もりじょうたろう)師がつとめます。三人とも大臣烏帽子・袷狩衣(あわせかりぎぬ)・白大口(しろおおくち)の姿で身分の高い家来であることを示します。ワキは現実の男性の役ですので、面はつけません。ワキは、雄略天皇の命令を受けて、美濃の国養老に出現したという不思議な泉の様子を確かめに行くと言います。
「風も静かに」 風も静かに楢の葉にそよいで、枝を鳴らさない平和な御代をのどかなことだ。 この曲が平和で治まっていることを示します。
「そもそもこれは」 天皇の家来が、美濃の国本巣郡に「不思議な泉」が出てきたと天皇への報告があった。天皇から急いで見て報告するようにという命令によって、本巣郡に向かっていると言います。
「治まるや 国富み」 世の中に治まり、国富み民も満ち足りて、都から四方に通じる道も開けており、交通が自由であるから遠い長旅もやすやすとできることだ。はるかな田舎の果てと名前だけは聞いていた美濃の中道も無事にとおりすぎて、養老の滝についた。
「急ぎ候程に」 養老の滝についた勅使、天皇の使いは、この滝がなぜ「養老」の滝というのか、土地の人にその理由を尋ねたいといいます。
「真ノ一声」の囃子で、この土地の老人と若い男が登場致します。先に登場する若い男は老人の子供の役で安藤貴康(あんどうたかやす)が勤めます。若い男もワキと同じく面(おもて)をつけていません。これを「直面(ひためん)」といいます。若い男は背中に薪を結わえた「負い柴」を持っています。山から薪を取って帰る帰り道であるという設定です。老人はシテ、この曲の主人公で観世銕之丞(かんぜてつのじょう)が勤めます。老人は、出目洞白作の小尉(こじょう)の面をつけます。
長い年月を経た美濃の国の山の松影に澄んでいる水は緑で美しいが、私たちも長く元気で壮年のように暮らしていることだなあ。松と同様に長寿で健康に暮らしている喜びを述べます。
通いなれた山の坂は年をとってもたやすく上ることが出来、心は安らかであることだ。
老人の眠りは目覚めやすく、夢に見るのは過ぎ去った六十年の若かった昔のことだが、盛りだったときは既に過ぎてしまい、
「心は茅店の」心は茅葺の家を照らす月に詩歌を口ずさみ、身には寒い朝の板橋の霜のように頭も白髪で真っ白になってしまったが、老いを養うこの滝川の水が、私の心を清めてくれるのだろうか。
「奥山の」奥山の深い谷の下に湧くという不老不死の菊水と同じことなのだろうか。この養老の流れも絶えることなく、いくら汲んでもなくなってしまうことはないだろう。
「長生の家にこそ」中国の皇帝の宮殿の長生きをする建物と書く長生殿には、老いることがないと言う名の不老門があると言うが、我々も長い年をこの山で住んできて、千年も長生きするという松にあやかって長寿を願う身なのだが、この岩の間から湧く水は薬であって、これにより寿命が延びていると確信するからこそ、これから先も長く生きられると思うことだ。なおこれからも長生きできると思うことだよ。
天皇の家来は。老人と若者に不思議な泉を発見した親子であるかを聞いて確かめ、自分が天皇からの使いであると述べ、この滝を養老とつけた理由について尋ねます。
老人は、この若者は私の子供だが、山に入って薪をとり、両親の世話をしていた。
ある日、疲れたところにこの滝の水を飲んだところ、普通の水とは異なり、さわやかで疲れも取れたので、仙人の家にある薬の水もこのようなものだろうかと家に帰って両親に与えた。
すると老人夫婦も元気になり、絶えず老人を元気にしてくれるので養老の滝と言うのだといいます。
天皇の家来は、その薬の水が滝のどこから出てくるのかを尋ねます。
老人はその場所を教えて、その流れが永遠に続くであろうと言います。
本当に老人を養う、養老の滝なのだと説明します。
老人は、老人さえも元気になるのだから、盛りの青年が飲んだのならば、薬になる。まして天皇が用いたのならば寿命が尽きることがないだろうといいます。根本となる主君の政治が正しいので、その流れを汲む我々までも豊かに住むことが出来るありがたいことだよと感謝します。
老人と若者は、蓬莱の島に不老不死の薬を求めに行った若者たちが、船中で年老い、ついにそれを探すことができなかったという伝説を引き、この薬の水派は尽きることがないと称えます。
川の水はとどまらないが、流れは絶えることなく。それに浮かぶ泡も澄んだ水の色をとどめているといいます。
夏の山の下を流れてゆく水が薬となるという、このような奇跡はこれまで誰も観たことがなかっただろう。
老人はこの泉を汲んで飲もうと言います
「春は酒瓶(さかがめ)の酒に濃い緑の色を宿す」とか、「秋は垣根の荻の花が木の紅葉と同じように紅くなって酒に紅い影を宿しているのを汲む」と詩に歌われています。晋の時代に政治から遠ざかった隠者の竹林の七賢が楽しみとし、特にその一人の劉伯林が好んだのも、この薬の水である酒です。さあ皆さんでこの薬の水を汲みましょう。そしてこの薬の水を大君に奉りましょう。自分の前に盃が流れてくる前に漢詩を作る曲水の宴の鸚鵡の盃であるのならば、両側の石が邪魔となって、流れて来ることが遅く感じられることもあるが、今は曲水の宴ではないから盃を手にとって早く水を汲んで夜通し夜通し月影の宿るこの酒を汲みかわそう。
ここからは、山奥で薬の水を飲み長寿を保った仙人の話となります。
「山路の奥の水にては」 山奥の薬の水を飲んで長生きした人にはどのような人がいるだろうか。
「彭祖が菊の水」 彭祖という人は菊の葉にたまった露を飲んだところ、仙人の力を身につけて七百歳も生きたのも薬の水のおかげであると聞いています。
「げにや薬と」いかにも菊の水は薬で、これを飲めば暫くの間に「千年を経るや」千年もの年月を過ごします。人間ばかりではなく、すべてこの世界にあるものは草木の類に花が咲き、実がなるのは季節がめぐってゆくからだとはいうものの、結局は雨露の水の恵みによるのであって、水は花を養う父母と言うことができます。この老人もこの水によって養われておりまして、普段着の袖を濡らしながら手に水を汲むと、水は自分の姿がそのまま映るほど清らかで、すばらしい薬だと思うせいなのか、老人の姿も若やいで見えるのは本当にうれしいことです。
天皇の家来は、養老に確かに薬の水が湧いていることを確認して、天皇に報告できることを喜びます。老人が、平和な世に薬の水も湧くと言う素晴らしい世の中に生まれ合わせていることを雄略天皇に感謝すると、家来は感激して涙を流し、このように不思議で素晴らしいことが起こるのだと述べます。
「言いもあへねば」その言葉が終わらないうちに天から光が輝き、滝の響きも澄み渡り、音楽が聞こえ花が降ってきた、これは普通の事とは思われない。能の《羽衣》にもありますが「虚空に花降り音楽聞こえ」という現象は、天女もしくは神仏が現れる前触れであると考えられていました。来序の囃子で若い男が退場いたします。
本日は「水波の伝」(すいはのでん)という特別な演出になりますので、出端の囃子で天女が登場し、舞を舞います。楊柳観音の化身である天女を長山桂三(ながやまけいぞう)が勤めます。頭に天冠、黒垂をつけ、長絹、うこん地の大口、小面(若狭守作)の姿で空を飛んで現れる天女を表現します。神仏は変身と分身が出来ますので、どのような場所にもどのような姿でも現れることが出来ます。神が仏の姿で現れることも、仏が神として現れることも可能です。楊柳観音は観音がこの世に現れる時の姿の一つで柳の枝を持ち、薬王菩薩とも呼ばれる人々の健康を守る仏の姿です。そしてこの楊柳観音とこの養老の山の神が実は同じであり、異なる二つの姿となって仮に現れているのだということが語られます。
「ありがたや。治まる御代の」 ああありがたいことだ。良い政治が行われて平和な世の中であるためか国土も穏やかで、五日に一度穏やかな風が吹き、十日に一度静かに雨が降る様子で災害も起きることはない。天候も順調なので平和が続き、この薬の水も絶えることはないだろう。素晴らしい様子だ。
「これとても」 これと言うのも、神仏が天皇の治めるこの国土の繁栄を守ろうと約束されているからで、自分はこの養老の山の神であり、(ここで後半の主人公の山の神観世銕之丞が登場)また別の姿で現れる時は楊柳観音という仏でもあるのだが、このように神と言い、仏と呼ぶのも、ある場合は同じものを水と呼んだり波と呼んだりすることと同じで、本質に変わりはないのである。
山の峰に吹く風の音や谷を流れる水の音まで、すべてが神仏が人々を救い恵みをもたらすための手段に他ならないのだ。峰の風や谷の水音までが美しい音楽を演奏するので、心を静めて待っていると、天上の神々がその美しい様子をご覧になって次々と姿をお現しになる。
山の神が国土の平和と繁栄を祝福して舞を舞います。現れた多くの天人の中で舞っているという約束事です。この舞は神舞ですが、今回は「水波之伝」の演出になりますので、通常の神舞と異なって緩急がつき、舞い方も通常の神舞よりダイナミックになります。本曲の大きな見所です。山の神は後半の主役、後ジテで観世銕之丞が勤めます。山の神は黒頭で、走り天冠に薬草である芍薬の花を付けています。面は「三日月」で出目洞白作です。能で最も身分の高い神の装束である狩衣を衣紋(えもん)に付け、また半切袴(はんぎりばかま)をつけています。
山の神が平和で豊かな世の中を祝福し、それが万年も続くであろうと祝福して本曲は終曲を迎えます。
「松陰に千代をうつせる緑かな」 いかにも清らかな山の泉に、千年も長生きするであろう緑の松が姿を映している。
「水とうとうとして」 水は豊かに絶えることなく湧き出で、波はゆったりとして穏やかである。
ここで「イロエ」という舞が入り、山の神は静かに舞台を廻って橋ががりに行き滝の姿を眺めます。滝から流れる水を象徴する所作があります。通常の演出よりも水を司る「山の神」のイメージが強調されます。
喩えに主君は水に浮かぶ船であり、その国に住む人々は船を浮かべる水のようなものであるという。人々が主君を尊敬している御代であるから、この平和な世の中が尽きる時はないのだ。上流の水が清いならば下流の水も濁ることがないように、主君の政治が正しいので人々も平穏でまことにめでたい御代だ、では幾久しい国土の栄を祈って神の国に帰ろう
山の神が国土を祝福し、今年の豊作と繁栄が約束されて、一曲は終曲を迎えます。能は余韻を楽しむ芸能です。拍手は主役の山の神が幕に一番近い松、三の松と申しますが、そこを通過するまでご遠慮ください。本日のイヤホンガイドは椙山女学園大学の飯塚が勤めさせて頂きました。ご清聴ありがとうございました。
解説が言葉にかかってしまうことが多く反省でした。もっと工夫したいと思います。明日は東海能楽研究会で久しぶりに発表します。頑張ります。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年1月20日 養老の解説原稿の草稿、ようやく書きました。今日手直しをしいて明日に備えたいと思います。今日午後西村高夫先生がいらしてくださるので「阿漕」の録音と来年度の大学連携講座についての打ち合わせをさせて頂きます。頑張ります。お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年1月18日 渡辺康先生を研究代表者にお願いしての三菱財団人文科学助成申請書ようやく昨日書きあがりました。採択を祈っております。今日は講義二コマと土曜日の解説原稿の執筆です。頑張ります。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年1月17日 今日は名古屋吠え学協会に取材に行き、午後は大学で資料整理をします。がんばります。
2011年1月16日 今日は卒業研究提出最終日です。まだ提出していない学生さんには頑張って頂きたいです。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年1月14日 今日・明日とセンター試験です。受験生と親にとって人生の大きな岐路になるもので、みんなが力出し切れるといいなあと思います。安城は晴れています。天気崩れず、あたたかくなりますように。。
2012年1月13日 今日は人間論と期末試験作成、養老のイヤホンガイド原稿の執筆です。頑張ります。
2012年1月12日 今日は講義三コマと民間財団助成金申請の打ち合わせです。
2012年1月11日 今日は味方健先生能本を読む会の聴講のために京都に出張しました。船橋の後半の世阿弥の改作部分に関する味方先生の説、、わざと流行の漢籍を引用して教養あると自認している上級武士のサロンにふさわしい「遊び」を入れているなどとても魅力的な説でした。名講義を聴くと元気が出ます。僕も頑張って調べようと思います。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年1月10日 今日から書きかけだった豊田能の解説とイヤホンガイド原稿を書きます。頑張らないと。。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年1月9日 今日は公募制推薦入試で出勤でした。助成金申請書をなんとか草稿のみ書きました。明日から豊田能「養老」の解説とイヤホンガイド原稿を書きます。まだ書きかけなので。。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年1月8日 寒いです。今日こそシラバスと名古屋甚句の原稿書かねばと思っています。風邪君なので医者に行きます。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年1月7日 講義始まりました。一年の最初、人間論、養老で始めましたが半分の学生には寝られてしまいました。教材工夫しなければと思います。明日は名古屋能楽堂では学生能があります。ただ、原稿がかけていないので残念ですが失礼して原稿書きます。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年1月6日 明日の人間論が一年最初の講義です。養老でやります。寝られてしまうことが多い大人数講義なので、大きな声で頑張ります。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2012年1月4日 今日子供たちと家内は長田郷先生の津子供能楽教室で津市の松菱での発表会。僕は自宅で研究報告書の執筆です。今日が良い日でありますよう。
2012年1月1日 我が家の年賀状です。今年が佳き年でありますよう。
新年明けましておめでとうございます
旧年中は大変お世話になりありがとうございました。昨年は三月に東日本大震災が起こり、大変な年でした。恵理人は今年四月から六月まで戦前韓国日本人社会における芸能調査のため韓国翰林大学校日本学研究所に国外研修に行きます。佳恵は日本基督教団熱田教会の婦人会会長、小学校読み聞かせボランティアなどで頑張っております。比呂人は今年中学生になります。離島の小学校の理科教師になり授業後釣りをして自給自足の生活をする夢を持って頑張って勉強しています。友恵は昨年十二月に新美南吉童話賞小学生高学年の部に「のりまき・おいなりの戦い」が佳作入選し、将来パテシィエとして働きつつ小説家をするのだと言って日々読書と作文に励んでおります。昨年父が体調を崩して入院し皆様にご心配頂きましたが幸い回復し感謝いたしております。本年もどうぞよろしくお願いいたします。今年が皆様にとって佳き年でありますよう。
飯塚恵理人・佳恵・比呂人・友恵 鮒二・めだか二
2012年1月3日 今日は名古屋能楽堂定例能に行きます。楽しみです。