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2011年中年日記はあらたなるステージに。 |
定年までの残り時間を意識しつつ何を「天命」として仕事が出来るのか。 |
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8月13日 能「阿漕」・狂言「梟山伏」解説文 案 飯塚 恵理人
ただいまご紹介に預かりました椙山女学園大学の飯塚と申します。開演前に15分ほど御時間を頂いて、本日の狂言「梟山伏」と能「阿漕」の見所について解説させて頂きたいと思います。最初に能の「阿漕」の粗筋について述べたいと思います。
最初に西国から出た僧が登場し、伊勢神宮に参宮したいと言います。この僧は相手役、能ではワキ方の役で苗加登久治(のうかとくじ)先生が勤めます。そして伊勢に向かう途中、阿漕の浦についたと話します。阿漕が浦は現在の三重県津市の海岸ですね。僧は、所の名所を尋ねようと言います。この時代、「名所」とは和歌に詠まれた場所と言う意味です。阿漕の浦は和歌に詠まれた歌枕ですから、その和歌に詠まれた場所や、その和歌の背景なども尋ねてみたいと言う事になります。能の作られた室町時代では、和歌に詠まれた内容が、その土地に関するイメージを形成するのです。今年の大学生は平成五年生まれなので、昭和のことは大学ではなかなか通じないのですが、この中には昭和のことをご存知の方もいらっしゃるようなので、僕の子供時代の流行歌を例に挙げさせて頂きますと、横浜のイメージは「ブルーライト横浜」で「街の明かりがとてもきれい」で「あなたと二人幸せよ」というものでしたが、同じ港町でも神戸だと「泣いてどうなるのか。捨てられた我が身がみじめになるだけ」というかわいそうなものでした。実態ではなく、歌がイメージを作るのです。そこに漁師の老人が登場します。前半の主人公で前ジテと呼びますが、藪俊彦(やぶとしひこ)先生が勤めます。自分はなぜ漁夫と言う殺生の家に生まれ、明け暮れ物の命を殺すのだろうと悩みながら登場します。仏教的な考えによれば、漁夫も魚を食べる人もみな殺生戒を犯していることになるのですね。しかし漁夫は、生活の手段だからと、今日も釣りに行こうと言います。
僧は漁師の老人を見つけ、この場所の名前を尋ねます。そしてここがかねて聞いていた阿漕が浦なのかと言います。僧は古い和歌で、「伊勢の海 阿漕が浦に引く網も度重なれば顕れにけり」、現代語訳しますと「伊勢の国の阿漕が浦に引く網も、何回もやっていたので露見してしまった」ということになります。僧はこのように詠まれた浦なのだなと、興味深いと言います。老人は僧に向かい、「優しい人だ」と言います。古典で「優しい」というのは風雅なという意味ですから、和歌が好きな風雅な人ですねと言う意味となります。そしてこの場所に住んでいるからその和歌を知っており、古今和歌六帖の和歌に「逢ふことも、阿漕が浦に引く網も度重ならば顕れやせむ」とこのように詠まれた海士なのだと言います。僧が最初に言った和歌と、老人が言った和歌は微妙に文が違いますね。僧の始めの句は「伊勢の国」老人は「逢ふことも」になっています。老人の言う形だと恋の歌になり、「人に隠れて二人で逢うことも、何回もなれば人に知られてしまうのではないか、人に知られては困るのだが」となります。古典の世界では恋愛は二人だけの秘密であり、人に知られると必ず邪魔される事になっているのですね。僧の言う「伊勢の国の」の形だと恋の内容はなく密猟していて「露見してしまったのだな」ということになります。
ただこれらの和歌には、密漁していて見つかってしまった、もしくは恋人が忍んで会ったり、阿漕が浦で密漁したりしたものが見つかっては困るという内容は書かれていますが、密漁が見つかったらどうなるか、あるいは熱愛が発覚したらどうなるかということは、一切書かれていません。また謡曲以前にはそれに関する話も伝わっていません。
能作者は、基本的に、わからないことは「作ってしまう」タイプの人間だと思います。和歌だけが残っていた。作者は密漁が見つかっては困るのだから、ここは禁漁区だったのだろうと勝手に作ります。理由を伊勢神宮の御膳調進のためとします。伊勢神宮になんらかの貢物をしていた可能性は十分あると思います。ただ、ここが禁漁区と言う歴史文書も私はみた事がありません。もしそのような文書が謡曲以前にありましたらぜひ教えて頂きたいです。
老人は、ここが神前の恐れがあるために漁を許さなかったのに、阿漕という漁師が、「業に染む心」、つまり釣りや魚採りが大好きなのですね、その思いに引かれて、夜、人に隠れて網を引いていた、暫くは他人も知らなかったけれど、何回も重なったから人に知られて、この「阿漕」という男をしばって、その場でこの浦の沖に沈めてしまったといいます。和歌にはまったく書いていない「顕れたらどうなるか」を「罰として海に沈められてしまった」と悲劇として後日談として作ったことになります。
僧はその語りを聴きながら、この老人がその阿漕の幽霊であることに気付きます。仏と神と鬼や幽霊は変身と分身が出来ますので、どのような姿でも、どこにでも現れることが出来ます。仏教では輪廻転生といって、魂は死後四十九日ごとに他の世界に転生すると考えられていました。殺生を犯した者は地獄に堕ちると言いますが、これは地獄に生まれると言うことです。地獄で何千回も死んで、それからまた他の世界に転生することもありますし、地獄で仏に会ってそのまま極楽に往生することもあります。この世が終わるのは仏教では弥勒菩薩が現れる五十六億八千万年後となっておりますので、人間がこの世に生れて二万年であることを考えれば、仏教的に考えれば何万回も生まれ変わってきていまここに人間としていることになります。生まれる前に生きていた世を「前世」「前生」と言います。ここであった他とのつながりが「他生の縁」です。自分が殺生の罪で地獄に堕ちて苦しみ、あなたが人間界に生まれて僧となってこの場所に来たのも、二人が以前生まれた世で関わり、「縁」があったからなのだから、ここで僧に弔って自分を救い、極楽に往生させてほしいと頼みます。ここで阿漕の幽霊は地獄に堕ちながらその霊が夢として僧の前に現れています。極楽に往生するためには「この世に思い残すことがありません」という状態にならねば救われません。この幽霊は死んでもまだ釣りたいと言う根っからの釣り好きなので「釣りをしたい」という思いが死後も残っているのです。ちなみに私も堤防釣りが大好きです。昨年の「観能の夕べ」の解説を頼んで頂いた翌日は、大野漁港に行き子供とアジを釣っておりました。こういう「この世にまだ釣りと言う楽しみがある」状態だと私も地獄行きで成仏は出来ませんが。でも阿漕の幽霊は釣りを始めます。景色は綺麗です。「日も夕暮の塩煙。立ち添ふ方や漁火の。シテ「影もほのかに見え初めて。地「海辺も晴るゝ村霧に。」とのどかな津の海辺の様子なのですが、網の綱を引いているといきなり強い風が吹いて波が立ち「俄にはやて吹き。海面暗くかき暮れて。敷波も立ち添ひ漁の燈消え失せて。こはそも如何にと叫ぶ声の波に聞えしばかりにて」と「どうしたのだ」という声とともに「跡はかもなく。失せにけりあとはかもなく失せにけり。」と消えてしまいます。僧の夢の中に、まだ魚採りの姿で出ているのですから重度の魚採り好きですよね。古歌に曰く、といって私が小学生の40年ほど前なのですが、「ス―ダラ節」という歌が流行ったことがありました。「チョイト一杯の つもりで飲んで いつの間にやら ハシゴ酒。気がつきゃ ホームのベンチでゴロ寝。これじゃ身体に いいわきゃないよ。分かっちゃいるけど やめられねえ」という歌詞でした。僕自身は地獄に堕ちても釣りがしたいとは思いませんが、能の《鵜飼》には「おもしろの有様や。底にも見ゆる篝火に。驚く魚を追ひまはし。かづき上げすくひあげ。隙なく魚を食ふ時は。罪も報も。後の世も忘れはてゝおもしろや。」とありますから、地獄に堕ちても魚が採りたい猟師を主人公とする点で「鵜飼」と「阿漕」は共通しますし、殺生戒を犯せば地獄行きと言う事もわかってはいるのです。ただ仏教的に「思い残すことはありません。すべて捨てられます、忘れられます。」という状態になることは非常に難しいことです。身体に悪いと分かっていても御酒やタバコがやめられない人はこの阿漕と同じでして仏教的にはお酒やたばこへの執心がなくならないと佛になれません。
僧は「いざ弔はん数々の。/\。法の中にも一乗の。妙なる花のひもときて。」と、妙なる花とありますので法華経を唱えて弔います。「阿漕」と「鵜飼」という漁師を弔う曲が、二曲とも法華経で弔う事については、日蓮宗の影響を考えて良いと思います。鵜飼の僧は安房の国清澄山という日蓮の出身地の僧ですからより濃厚ですが、「阿漕」も、日蓮自身が「安房国長狭郡東条郷片海の海人が子也」(『本尊問答抄』)と、自分の実家が殺生を生業とする漁師の家であったという意味のことをのべており、そのような身であっても法華経を信じれば成仏できると説いているからです。
すると先程は老人に化けていましたが、今度は懺悔の為、生前の男の姿で出てきます。そしてまた人目を気にしながらも網を引こうとします。阿漕が塩木こりもせで。地「なほ執心の網置かん。」と謡いますが「懲りない」のですね。法華経も耳に入るけど魚採りが面白くてしかたない。すると地「唯罪をのみ持網の。波ははへつて。猛火となるぞや。あら熱や。堪へがたや。丑三つ過ぐる夜の夢。/\。見よや因果のめぐり来る。火車に業つむ数苦しめて。目の前の。地獄も誠なり実に。恐ろしのけしきや。」とまた地獄の苦しみが始まります。そして魚が毒蛇になってかみついたり、氷に閉じ込められたり「焦熱大焦熱。焔けぶり。雲霧。立居に隙もなき。冥土の責も。」と責められます。「度かさなる阿漕が浦の。罪科を。助け給へや旅人よ。助け給へや旅人とて。また波に入りにけりまた波の底へ入りにけり。」と僧に回向を頼んで消えます。この漁師が釣りの面白さを忘れて成仏できるのはいつだろうかと、余韻を持たせる終わり方となっています。阿漕が釣りの面白さを忘れるまで僧は弔わねばならないのですね。まあ、釣り好きでなくても、お酒やタバコがやめられないとか、甘いものがやめられないとか、かっばえびせんがやめられないとか、やめられないものがある人は、仏教的には阿漕と同罪です。ただ僧の弔いによって阿漕が仏になれば、仏は縁のある衆生を救いますから阿漕が成った佛によって僧も救われる事になります。ただそれまでには僧が何回も転生して僧となって弔わねばならないほど長くかかるかも知れませんが。世の終わりまでの五十六億八千万年の間には間に合うだろうと。。よく不成仏と書いてある解説書もありますが、仏教的な解釈によれば「時間がかかる」のであって「不成仏」ではないのです。
順番としてはこちらが先なのですが、次に「梟山伏」について解説させて頂きます。最初にあらすじを述べたいと思います。ある男が登場し。山から戻った弟が病気になってしまったので、山伏のところにお祈りを頼みに行きます。山伏は、もったいぶって顕れて祈ると、弟ははばたきをして梟の鳴き声を上げます。狂言では梟は「ホーホー」ではなくて「ポーン」と鳴きます。男から弟が山で梟の巣にいたずらをしたと聞き、梟がとりついたのだろうと、祈るのですが、そのうちに梟が呼びに来た兄にも取りついてしまう。最後には山伏にもついてしまうという筋になります。内容を真面目に解説するならば「お祈りの効かない山伏を風刺している」ということになりますが、パロディにするのですね。パロディと言うものは権威のあるものを茶化すのです。お祈りが効く山伏が出る作品としては能の「葵上」があり、その横川の山伏がお祈りの効く最たる山伏でしょうが、「梟山伏」は能の葵上のパロディになっています。「梟山伏」で山伏が出てくる「九識の窓の前」の台詞も「葵上」と共通します。お祈りが効く山伏を効かない山伏にするのですが、とりついているものも、葵上のように命を狙う恐ろしいものにしてしまうと弟が死んでしまう悲劇になってしまうので、命に別条がない、しぐさが面白いものに変えるのです。羽ばたきしてポーンと鳴いているだけならば面白いだろうと・・・(よく考えると深刻ですがそこまでは考えていません。)。「梟山伏」は小学校や幼稚園などの学校公演でもよく行われます。私は名古屋市内の公演ですとたまに伺うのですが、とくに幼稚園や小学校低学年には梟はよく憑きます。終演後の休み時間にあちこちに梟が出るのですね。たまには先生にも梟が憑きます。私は、幼稚園の園長先生についたのをみたことがあります。楽しい演目です。
では能の最後までゆっくりお楽しみください。御清聴ありがとうございました。
2011年6月5日 昨日の葵上(宝生流)イヤホンガイドの確定原稿です。
お調べの時間
笛・小鼓・大鼓の囃子方が楽器の調子を整えるお調べの音が聞こえて参りました。まもなく開演となります。最初に、物語の筋を簡単に説明しておきたいと思います。
最初に朱雀院の臣下が登場し、左大臣の娘である葵上に憑いた物の怪がひどいので、正体を明らかにするため、梓巫女に占わせようといいます。そしてツレの照る日の巫女が梓弓を鳴らして葵上に祟っている霊を呼び出します。すると、六条御息所の生霊が梓の音に引かれて橋がかりに現われます。この生霊の姿は、一般の人の目には見えず、照日巫女にしか見えないという約束事です。照日の巫女は、葵上に祟っている霊が、壊れた牛車に乗った高貴な女性であると朱雀院の臣下に伝えます。生霊は六条御息所であると名乗り、自分への源氏の愛情を奪った葵上への恨みの念を述べ、葵上を扇で打ちます。生霊は姿が見えないとされていますが、この動作によって、生霊の魔力で葵上が病気になったことを表現します。六条御息所は源氏の愛情が自分には戻らないことを哀しみ、葵上は生きてさえいれば、源氏との関係が続くだろうと言います。そして葵上の病臥を象徴する小袖を扇で打ち、葵上の魂を連れ去ります。朱雀院の臣下は葵上の病気がひどいので、横川の小聖と言う修行者を呼びます。横川の小聖が、病気平癒を祈っていると、怒りのあまり鬼となってしまった六条御息所の怨霊が現われます。横川の小聖は不動明王に祈り、六条御息所の化した鬼女と激しく戦います。横川の小聖が生霊の頭の上から数珠を投げかけ、生霊は降参します。六条の御息所は横川の小聖の祈りの力によって成仏し、一曲は終曲を迎えます。
源氏物語では、六条の御息所の生霊により葵上は亡くなりますが、能ではそれを素材としながらも、六条御息所が恨みを捨てて成仏するという全く異なった物語を創造します。羽衣・船弁慶と並んで上演頻度の高い名曲です。高貴な女性の恋の苦しみをどのように美しく描くのか、中世の人々が生み出した新しい六条御息所像を楽しんで頂ければと思います。
囃子方の登場
幕を片方のみ上げて、囃子方が登場いたします。笛、竹市学(たけいちまなぶ)・小鼓、船戸昭弘(ふなとあきひろ)・大鼓、筧鉱一(かけひこういち)・太鼓、加藤洋輝(かとうひろき)の各師となります。舞台向かって右側の切戸口より、本曲の地謡、コーラスを担当する地謡方が登場いたします。今日の地謡のリーダー、地頭(じがしら)は後列左から二人目の水上輝和(みずかみてるかず)師です。
舞台正面に一枚の小袖が出されます。葵上の病臥した姿を象徴するもので、出し小袖と呼ばれます。小袖の色が赤い事によって、葵上の若さが表現されます。
朱雀院の臣下の登場。
朱雀院の臣下が登場し、源氏の正妻である葵上の病気がひどいので、照る日の巫女という占いの上手な巫女に、葵上に祟っている霊の正体を明らかにしたいと言います。源氏の家来ではなく、朱雀院の臣下とすることで、葵上の病気が国にとって重大な事であることを表現します。ワキ方の役で杉江元(すぎえはじめ)が勤めます。臣下はシテツレの照る日の巫女に、梓弓を鳴らして霊を呼び出すように命じます。シテツレの照る日の巫女を内藤飛能(ないとうとびよし)が勤めます。
照る日の巫女の梓弓の呪法
天清浄地清浄―照る日の巫女が、すべての穢れを払い清め、霊を呼び出します。憑き物は、葦毛の駒に乗って駆け付けるように速やかに駆け付けるであろうといいます。小鼓と大鼓によるこの囃子をノットのノットの囃子と呼び、梓弓を鳴らしている音を象徴的に表現します。今回は梓の出という特殊演出になりますので、前シテはこの謡のうちに幕を少し上げて、これを半幕と呼びますが、姿を見せます。一旦おろします。次第から上歌までは抜きます。クドキはシテひとりで謡います。
シテの六条御息所の登場
梓弓に引かれて、葵上に祟っている六条御息所の霊が登場します。前ジテで宝生流シテ方の衣斐正宜(いびまさよし)が勤めます。面(おもて)は泥眼(でいがん)です。これは眼の部分に金泥が塗ってあり、遠くから見るとその金が光って涙を流しているようにみえることからの名称です。夫や恋人に去られて嫉妬している女性の面に用いられます。三ノ松でシヲリ、また一の松まで進みます。(シヲリは泣いていることを表現する所作です。)
三つの車に法の道―ほかの人たちはみな仏法の方便に導かれて悟りを開き、生死を繰り返す輪廻転生の世界から逃れて成仏できるのであろうが、私は源氏の君が夕顔の元を訪れ、最初の浮気をされて以来、心が乱れて慰められないことがないことが悲しいことだ。
(次第から上歌までは抜きます。かいせつせず)
東屋の母屋の妻戸にー私はこのように母屋の入り口にいるのだが、姿が見えないので誰が来たのかと尋ねる人もいない。霊の姿は、霊能者である照る日の巫女にしか見えません。
不思議やなー照る日の巫女は、朱雀院の臣下に向かって、葵上に祟っている女性は、だれかわからない身分の高い女性で、壊れた牛車に乗っていらっしゃるのだが、さめざめと泣いている気の毒な様子だと告げます。臣下は、葵上に祟っている霊が、牛車を壊されてしまった源氏の妻の一人である六条御息所の霊であるとわかりますが、霊に向かってはっきりと名乗るように言います。
それ娑婆電光のー夢のように儚い世に執着しても仕方ないのだが、いったいいつ霊が体から離れてこのように浮遊してしまつたのだろう。身体から「うかれ」て離れたと語ることからこの霊は生霊とわかります。
唯今梓の弓の音にーいま梓弓に引かれて現れ出たのはどのような者とお思いになりますか。私は六条の御息所の怨霊です。私も世にときめいていた若いころには、春は禁中で行われていた花の宴に興じ、院の御所に紅葉が美しい秋の夜は月を眺めて楽しみ花やかな暮らしをしていたのだが、容貌が衰えてしまったので、朝顔が夕方を待たずに萎んでしまうように世に捨てられてしまったことだ。それでいつからともなく辛く恨めしいという心が生まれ、この恨みを晴らしたいと、ここに現れて来たのです。
思い知らずや世の中のー怨霊は葵上への恨みを述べます。よくよく思い知りなさい。世の中で人に親切にするのは相手のためではありません。親切にしていれば他人からも親切にしてもらえて、結局自分のためになるのです。他人に辛く当たったならば、自分にその報復があるのは当然です。あなたはいまさら嘆いても仕方ないのです。あなたへの恨みは決して消えることはありません。
あら恨めしやー生霊は、葵上への怨みの念が込みあげて、扇で葵上の病臥を示す小袖を打ちます。怨霊のためにますます病気がひどくなることを象徴します。おつきの女房も最初は貴婦人が嫉妬によって後妻に辛く当たるのはふさわしくないと言いますが、結局は加勢します。世阿弥時代には実際にお付きの女房の役がシテツレとして登場したのですが、現在は観世流の「古式」という小書演出の場合を除き、お付きの女房は登場せず、御息所を止めようとする謡はツレの照る日の巫女が謡います。
六条の御息所は葵上に対して、怨みの念の深さを思い知るようにと言います。
(恨めしの心や)生霊は葵上に対して、私の怨みが深いため、あなたがひどい病気に苦しんで泣いたとしても、生きてこの世にいるならば、光源氏との結婚生活が続くでしょうと言います。
自分は光源氏とは全く関係のなかったもとの身となり、悲しみの余り、葉の末の露のように消えてしまうとするならば、それも特に恨めしいことだ。光源氏との結婚生活がもどることはもうないのだが、結婚していた日々が昔の話になってしまったので、ますます恋しく悲しい思いが増すのだ。やつれて衰えてしまった自分の顔も恥ずかしい。葵上の魂を、この壊れた牛車に乗せて連れ去ってしまおうと、生霊は上着の唐織を引き抜いて、小袖の上で足拍子を踏みます。
葵上の魂を抜き去り、連れ去る演技となりますが、魂を引き抜かれた葵上は、意識をなくした、重態の状態ということになります。
ワキツレの朱雀院の臣下は、アイ狂言の従者を呼び出し、葵上の病気がいよいよひどいので横川に行き、横川の小聖という修行僧を連れて来るように言います。従者の役を井上靖浩(いのうえやすひろ)が勤めます。横川は比叡山延暦寺の三塔の一つで、天台宗の僧侶が多く修行していました。
従者の呼び掛けによって、ワキの横川の小聖が登場いたします。高安勝久(たかやすかつひさ)が勤めます。兜巾(ときん)・篠懸(すずかけ)・縞水衣(しまみずごろも)・白大口(しろおおくち)・刺高数珠(いらたかじゅず)で、山伏であることを表現いたします。
横川の山伏は深い山の庵の窓の元で十乗の観法を行い、心を落ち着けて仏道修行に励んでいるところに訪問されようというあなたはどのような方なのですか。
従者は左大臣よりの使いとして来たと述べます。(飯塚注:ワキツレは朱雀院の臣下なので本当は合わない。これはイヤホンガイドでは言わない。)横川の小聖は特別な修行のためどこにも行かないのだが大臣からのお使いであるならば行こうといいます。
朱雀院の臣下が小聖に加持祈祷を依頼します。小聖は袖を上げ加持の準備をします。小鼓・大鼓がノットの囃子を打ちます。これは山伏が加持祈祷をしているという象徴的な表現です。六条の御息所の怨霊は唐織をかずいて近づいていますが、これは誰にも見えない姿で葵上の命を狙いに来ているという象徴的な表現です。
横川の小聖は、修験道の開祖である役の行者(えんのぎょうじゃ)の跡を継いで、胎蔵界(たいぞうかい)・金剛界(こんごうかい)にたとえられる大峰(おおみね)・葛城(かずらき の峰に分け入って修行し、その時に降りかかった七宝のような露を払ったこの篠懸におよそ不浄なものを隔てる袈裟(けさ)をつけた姿で、一祈り祈ったのである。
東方に降三世明王―横川の小聖は「なまくさまんだばさらだ」という不動明王の慈救偈(じくげ)を唱えます。これを唱えると災禍を免れ、願いが叶うと信じられていた呪文で、山伏は葵上に祟っている怨霊の降伏と退散を祈ります。鬼の姿も、霊能者である横川の小聖にしか見えません。観客は横川の小聖の眼を通して、本来目に見えないはずの鬼を見ているという約束事です。
祈りの部分ー六条御息所は般若(はんにゃ)の面(おもて)をつけています。眼が剥き出し、口が耳まで裂けていることによって、怒りと悲しみのあまり、感情が抑えられなくなって鬼になってしまったことを表現します。角が二本ある鬼は能ではすべて嫉妬のあまり鬼になってしまった女性です。ちなみに男性の鬼は「しかみ」という面で表わされますが、角がなく牙が剥き出しになっています。
横川の小聖と鬼女と化した六条御息所は葵上の命をめぐって激しく戦います。御息所が持つ打ち杖は、鬼の持つ魔力を表現し、これに打たれると命が無くなります。御息所は葵上を象徴する小袖を打とうとし、小聖は鬼女から葵上を守ろうとします。
鬼女は横川の小聖に対して帰るよう言います。横川の小聖は構わずさらに祈ります。横川の小聖は横川に住む天台宗の流れを汲む修行者です。降三世明王(ごうざんぜみょうおう)から不動明王(ふどうみょうおう)の五つの仏は天台宗など密教では五大尊明王(ごだいそんみょうおう)と呼ばれ、怒りによって人間の煩悩を滅ぼし悟りに導く仏とされています。ワキが鬼の頭から数珠を振りおろし、鬼が安座することによって、横川の小聖が勝利したことを示します。
鬼は「なんと恐ろしい仏の声だろう」と耳をふさぎ、打ち杖を捨て扇を手にします。打ち杖を捨てることによって相手を病気にする魔力を捨てたことを表現し、扇を手にすることによって人間の心を回復したことを示します。経文の読誦を聴くことにより執念と怒りに凝り固まっていた鬼が心を和らげ、仏もその場に現れたと述べます。六条御息所は悟りを得て成仏し、苦しみの世界から救われて一曲は終曲を迎えます。
能は余韻を味わう芸能です。拍手はシテが幕に一番近い松、三の松と呼びますが、そこを通り過ぎるまでご遠慮ください。本日のイヤホンガイドは、椙山女学園大学の飯塚が勤めさせて頂きました。ご清聴ありがとうございました。
2011年5月6日 昨日の午後は家で資料整理をしようと思いましたが、西園流尺八の岩田西園先生が御自宅にいらっしゃるとのことでしたので、写真撮影に伺いました。歴代宗家の写真・楽譜・演奏会資料など貴重な資料拝見させて頂き、本当に感謝でした。今日は講義はありませんが教材作成の為出勤します。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2011年5月5日 朝起きて思った事。。思っていたよりも肉体的疲労が蓄積している。。ここしばらく調査などで出歩くこと多かったので、充実していましたが、休みがあまりありませんでした。年齢を考えれば、休まないと長い目で見れば効率が下がります。午後は県立図書館に行きたいと思っておりましたが、予定を変えて自宅で資料のまとめをしたいと思います。皆様お元気でお過ごし下さいますよう。
2011年5月4日 今日は保田紹雲先生の御自宅に東海能楽研究会のメンバーで集まり、布池能楽堂関連の資料の撮影をしました。膨大な資料と思いましたが三台のカメラで六人でめくる人とシャッター押す人に分かれて分担し、10時に集合して、昼ごはんはさんで3時には終了しました。昭和初期の名古屋能楽界を支えた人を知る上で間違いなく一級の資料だと思います。大変楽しく、勉強になり感謝でした。米田真理先生の科学研究費による調査の一部で、私も研究分担者として参加させて頂きました。明日は子供の日なので、午前中は家族連れて実家に行き、午後から資料調査に行きたいと思います。晴れると良いなあと思います。皆様お身体に気をつけてお元気でお過ごしくたさいますよう。
2011年5月3日 今月から県史の特別調査委員にさせて頂きましたの で、資料もっていらっしゃるところにお電話して協力をお願いして います。了解いただける方もありますが、以前貸して頂けた方でも 「飯塚さんの資料の扱い方には納得できない」と言われて断られる 方もいらっしゃいます。以前お借りして調査して、報告書に資料読 み落としや見落としで間違えて書いてしまったことが複数回あり、 信用をなくしてしまったからなのですが。。僕は自費で資料を買い 集めて調べているのではなく、全てコレクターの方や図書館・博物 館などで拝借して作業しています。交通費や複写費も全て研究費で まかなっていますから急いで報告書を書かねばなりません。その過 程での読み落としや間違いが生じるのですが。。プロである以上言 い訳できることではありませんから反省です。僕がその方の資料を 扱う事をおりて、他の方にお願いすることで県に協力いただければ ありがたいなあと思いますが。。最近特に短期記憶が危ないです。 そういうなかで、ミスなく着実な仕事をすることは難しいですが、 「プロ」として頑張ります。今日の午後も戦前の雅楽に詳しい方の インタビューに伺います。戦前どのような時・場所で雅楽が演奏さ れてきたのか、携わった方のお名前など伺って図書館で調べたいです。すでにしてしまったミスは取り返し付きません。修正報告など 可能なものは対応して、自分に可能な調査を前向きに行いたいと思 います。みなさまお元気でお過ごし下さいますよう。
2011年5月1日 雨の日曜日です。子供達は水族館に行きます。今日は豊田能なので梅若紀彰の求塚楽しみです。
2011年4月29日 今日は連休初日、そして家内の誕生日です。母は先約があり行けませんでしたが、父と家族で連休恒例の蕨狩りに豊田の三つ足栗園に出かけました。入園料はそれなりにかかりますが、子供でも安全なのと、お弁当付きなので、値段には見合っていると思います。一昨日雨があり、今日は晴天でした。これまでで一番蕨狩りに向いている日だったと思います。午前中と午後は少しだけでしたが、一週間分以上山菜ごはん食べられる量の蕨は採れましたので満足でした。帰宅後昼寝してから比呂人連れて安城市歴史博物館に行きました。「100年前の絵葉書」展ですが、絵葉書が、その時代の風景・生活を伝える非常に良い資料であることにあらためて気がつかされました。その中に関西連合共進会の絵葉書のセットがありました。今日はそのセット全部が出ていたわけではないので展示されていませんでしたが、能舞台の写真や、西川流の踊りの写真などもあったように思います。特に芸能や服飾関係の絵葉書に目が行きました。。五月一日から、愛知県史資料編の近代編の芸能担当の特別調査委員をさせて頂くことになりました。東海学園大学の小林幸夫教授のもとで、明治四年の廃藩置県から終戦までの愛知県の芸能資料で後世の愛知県民に残すべきものを収集・整理して選択する仕事ですが、範囲が芸能全体と非常に広く、また本年度中刊行なので九月入稿が義務となります。あくまで下働きですが、後に残る県民の税金を使用する仕事ですから、責任重いです。この分野の尾崎久弥先生や関山和夫先生・安田文吉先生の先行研究を読み直し、調べ直すところから始めたいです。あと知り合いの先生方に資料の所在伺う事と。大学院生の演習発表みたいですが、基本は常に先行研究の調べ直しからだと思います。がんばります。明日は出勤します。皆様お元気でお過ごし下さいますよう。
2011年4月28日 明日から連休です。そして家内の誕生日です。家族で豊田に蕨狩りに行きます。楽しみです。もう寝ます。おやすみなさい。
2011年4月26日 今日は午前中が卒業研究指導、午後は教務委員会でした。まだ残務処理がありますが、九時過ぎたので寝ます。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2011年4月24日 昨日は夕方より雨が上がり、無事津市お城公園で薪能が行われました。感謝でした。昨日の解説文、この通りに全部は出来ませんでしたが文案を上げさせて頂きます。
阿漕 解説
ただいまご紹介に預かりました椙山女学園大学の飯塚と申します。開演前に三十分ほど御時間頂いて、本日の能「阿漕」の見所について解説させて頂きたいと思います。最初に能の『阿漕』の粗筋について述べたいと思います。
最初に日向の国から出た僧が登場し、伊勢神宮に参宮したいと言います。この僧は相手役、能ではワキ方の役で飯冨雅介先生が勤めます。そして伊勢に向かう途中、阿漕の浦についたと話します。阿漕が浦は御当地、津の海岸ですね。僧は、所の名所を尋ねようと言います。この時代、「名所」とは和歌に詠まれた場所と言う意味です。阿漕の浦は和歌に詠まれた歌枕ですから、その和歌に詠まれた場所や、その和歌の背景なども尋ねてみたいと言う事になります。私は元高校の国語教師で、そのあと予備校講師もしておりましたので、もし津の高校に勤めていたならば、阿漕が浦について詠まれた和歌を一首、古典的仮名遣いで書けなどという課題を授業の中で出したかも知れませんが、和歌に詠まれた内容が、古典の世界ではその土地に関するイメージを形成するのです。そこに漁師の老人が登場します。前半の主人公で前ジテと呼びますが、長田郷先生が勤めます。自分はなぜ漁夫と言う殺生の家に生まれ、明け暮れ物の命を殺すのだろうと悩みながら登場します。仏教的な考えによれば、漁夫も魚を食べる人もみな殺生戒を犯していることになるのですね。しかし漁夫は、生活の手段だからと、今日も釣りに行こうと言います。
僧は漁師の老人を見つけ、この場所の名前を尋ねます。そしてここがかねて聞いていた阿漕が浦なのかと言います。僧は古い和歌で、「伊勢の海 阿漕が浦に引く網も度重なれば顕れにけり」、現代語訳しますと「伊勢の国の阿漕が浦に引く網も、何回もやっていたので露見してしまった」ということになります。僧はこのように詠まれた浦なのだなと、興味深いと言います。老人は僧に向かい、「優しい人だ」と言います。古典で「優しい」というのは風雅なという意味ですから、和歌が好きな風雅な人ですねと言います。そしてこの場所に住んでいるからその和歌を知っており、古今和歌六帖和歌に「逢ふことも、阿漕が浦に引く網も度重ならば顕れやせむ」とこのように詠まれた海士なのだと言います。僧が最初に言った和歌と、老人が言った和歌は微妙に文が違いますね。僧の始めの句は「伊勢の国」老人は「逢ふことも」になっています。老人の言う形だと恋の歌になり、「人に隠れて二人で逢うことも、何回もになれば人に知られてしまうのではないか」となります。僧の言う形だと恋の内容はなく密猟していて「露見してしまった」ということになります。
ただこの和歌には密漁していて見つかってしまった、もしくは恋人が忍んで会ったり、阿漕が浦で密漁したりしたものが見つかっては困るということは和歌の内容に書かれていますが、見つかったらどうなるかということは、和歌には一切書かれていません。また謡曲以前にはそれに関する話も伝わっていません。
能作者は、基本的に、わからないことは「作ってしまう」タイプの人間だと思います。和歌だけが残っていた。作者は密漁が見つかっては困るのだから、ここは禁漁区だったのだろうと勝手に作ります。理由を伊勢神宮の御膳調進のためとします。伊勢神宮になんらかの貢物をしていた可能性は十分あると思います。ただ、ここが禁漁区と言う歴史文書も私はみた事がありません。もしそのような文書が謡曲以前にありましたらぜひ教えて頂きたいです。
老人は、ここが神前の恐れがあるために漁を許さなかったのに、阿漕という海士が、「業に染む心」、つまり釣りや魚採りが大好きなのですね、その心に引かれて夜人に隠れて網を引いていた、暫くは他人も知らなかったけれど、何回も重なったから人に知られて、「阿漕」をしばって、その場でこの浦の沖に沈めてしまったといいます。和歌にはまったく書いていない「顕れたらどうなるか」を「沈められてしまった」と悲劇として後日談として作ったことになります。
僧はその語りを聴きながら、この老人がその阿漕の幽霊であることに気付きます。仏と神と鬼や幽霊は変身と分身が出来ますので、どのような姿でも、どこにでも現れることが出来ます。仏教では輪廻転生といって、魂は死後四十九日ごとに他の世界に転生すると考えられていました。殺生を犯した者は地獄に堕ちると言いますが、これは地獄に生まれると言うことです。地獄で何千回も死んで、それからまた他の世界に転生することもありますし、地獄で仏に会ってそのまま極楽に往生することもあります。この世が終わるのは仏教では弥勒菩薩が現れる五十六億八千万年後となっておりますので、人間がこの世に生れて二万年であることを考えれば、仏教的に考えれば何万回も生まれ変わってきていまここに人間としていることになります。生まれる前に生まれていた世を「前世」「前生」と言いますがここでの縁が「他生の縁」です。自分が殺生の罪で地獄に堕ちて苦しみ、あなたが人間界に生まれて僧となってこの場所に来たのも、二人が以前生まれた世で関わり「縁」があったからなのだから、ここで僧に弔って自分を救い、極楽に往生させてほしいと頼みます。ここで阿漕の幽霊は地獄に堕ちながらその霊が夢として僧の前に現れています。極楽に往生するためには「この世に思い残すことがありません」という状態にならねば救われません。この幽霊は死んでもまだ釣りたいと言う根っからの釣り好きなのです。僕は実は堤防釣りが大好きで、子供能楽教室の帰りにはいつも子供付き合わせて河芸漁港か白子漁港で釣りをしているのですが、こういう状態だと成仏は出来ないのですね。でも幽霊は釣りを始めます。景色は綺麗です。「日も夕暮の塩煙。立ち添ふ方や漁火の。シテ「影もほのかに見え初めて。地「海辺も晴るゝ村霧に。」とのどかな津の海辺の様子なのですが、
網の綱を引いているといきなり強い風が吹いて波が立ち「俄にはやて吹き。海面暗くかき暮れて。敷波も立ち添ひ漁の燈消え失せて。こはそも如何にと叫ぶ声の波に聞えしばかりにて」と「どうしたのだ」という声とともに「跡はかもなく。失せにけりあとはかもなく失せにけり。」と消えてしまいます。僧の夢の中に、まだ魚採りの姿で出ているのですから重度の魚採り好きですよね。地獄に堕ちても釣りがしたいとは思いませんが、この曲のテーマは「わかっちゃいるけどやめられない」なので、身体に悪いと分かっていても御酒やタバコがやめられない人はこの阿漕と同じでして仏教的にはお酒やたばこへの執心がなくならないと佛になれません。
脇は「いざ弔はん数々の。/\。法の中にも一乗の。妙なる花のひもときて。」と妙なる花とありますので法華経で弔います。すると先程は老人に化けていましたが、今度は懺悔の為正体の男の姿で出てきます。そしてまた人目を気にしながらも網を引こうとします。阿漕が塩木こりもせで。地「なほ執心の網置かん。」と謡いますが「懲りない」のですね。法華経も耳に入るけど魚採りが面白くてしかたない。すると地「唯罪をのみ持網の。波ははへつて。猛火となるぞや。あら熱や。堪へがたや。丑三つ過ぐる夜の夢。/\。見よや因果のめぐり来る。火車に業つむ数苦しめて。目の前の。地獄も誠なり実に。恐ろしのけしきや。」とまた地獄の苦しみが始まります。そして魚が毒蛇になってかみついたり、氷に閉じ込められたり「焦熱大焦熱。焔けぶり。雲霧。立居に隙もなき。冥土の責も。」と責められます。「度かさなる阿漕が浦の。罪科を。助け給へや旅人よ。助け給へや旅人とて。また波に入りにけりまた波の底へ入りにけり。」と僧に回向を頼んで消えます。この漁師が魚が嫌いになって成仏できるのはいつだろうかと、それまで僧は弔わねばならないのですね。そして阿漕が仏になれば、仏は縁のある衆生を救いますから阿漕が成った佛によって僧も救われる事になります。ただそれまでには僧が何回も転生して僧となって弔わねばならないほど長くかかるかも知れませんが。
ここで本日のシテの長田郷先生にご登場いただきます。長田先生には網と能面を持ってきて頂きました。まず前は三光尉・後は痩男ですよね。これについて解説お願いします。
次に網を持ってきて頂きました。これの引き方が喜多流ですと観世流と異なります。網を引いて頂きたいのですが。。長田先生、お忙しい所ありがとうございました。
このあと長田先生の子供能楽教室の発表があります。子供教室は今後も無料で継続されます。月二回日曜日一時半から三時半まで、津市安東支所でなさってくださいますので、幼稚園から中学生までの方、ぜひご参加ください。五月は八日と二十二日です。詳細は長田先生までお問い合わせお願い致します。また能がおわったあと長田たけし先生からのご挨拶がありますのでよろしくお願い致します。また来月になりますが、5月29日には子供教室主催でリージョンプラザ2階第三会議室で能の初心者向けカルチャーを行います。6月11日に長田郷先生が名古屋能楽堂の若鯱能で《源氏供養》を舞われますので、能《源氏供養》を楽しむという題で講師は私がさせて頂きます。先回《阿漕》を観るが幸いにも好評で、おかげさまで残席が10程度になってしまいましたが、もし飯塚まで連絡頂けますと幸いです。では能の最後までゆっくりお楽しみください。御清聴ありがとうございました。
子供教室仕舞、友恵が田村クセ、比呂人が蝉丸道行でしたがシテ謡も大きな声で謡えて、上級生になったんなだなあと感謝致しました。楽しかったです。今日はイースターです。熱田教会の中高科の説教を担当させて頂き、午後は東海能楽研究会、夜は家族でラーメンを食べに行きました。幸せなイースターでした。そういいながら、今日は先月急逝された森本伊知郎先生の四十九日なのですね。大きな学問的損失で、、言葉もありませんが森本先生の御冥福と御家族の幸福をお祈り致します。明日から、連休に入るまで、頑張って勉強します。皆様お元気でお過ごし下さいますよう
2011年4月23日 今日は夕方から津の市民薪能、長田郷先生の「阿漕」楽しみです。子供達も前座の子供能楽教室の仕舞で出させて頂きます。僕も5時30分から解説をさせて頂くのですが、朝から雨です。お城公園ではなく、雨天会場のセンターパレスかなあと思いますが。。皆様お元気でお過ごし下さいますよう。
2011年4月21日 今日は会議一つすっかり忘れていて他の先生方に迷惑かけてしまい反省でした。手帳忘れて大学に出かけてしまったので。。気をつけます。皆様お元気でお過ごし下さいますよう。
2011年4月19日 夏休みの土曜日に能の解説を依頼して頂きました。何回もあるなかで、どの週ならば伺えるかのお問い合わせ頂いたのですが、椙山のオープンキャンパスや子供の行事など、意外と予定があることに気づいて驚きました。どれも大切な仕事なので、出来る範囲で、がんばりたいです。解説は勉強もしなければなりません。どの曲を担当させて頂けるかはまだわかりませんが、分かりましたら勉強始めたいと思います。ではまた、皆様お元気でお過ごし下さいますよう。
2011年4月18日 今日は研究費申請の打ち合わせでした。どんな研究をするにしても資料を作成するための謝金や委託費、消耗品代は必要です。がんばります。
2011年4月17日 今日は名古屋梅猶会に伺います。梅若吉之丞先生の実盛楽しみです。
2011年4月16日 ものすごく慌ただしいです。忙しすぎて何から手をつけて良いか分からず、気が付くと紅茶のみながらユーチューブで「唐獅子牡丹」を聴いていると言うような不毛な日々です。でも頑張ります五月から椙山女学園オープンカレッジで「能楽鑑賞ビギナーズ」という4回の講座を始めます。ワキ方の飯冨雅介先生に脇の謡いについて、狂言方の佐藤友彦先生に狂言の所作について、大鼓方の筧鉱一先生に囃子と謡曲について教えて頂き、7月3日の名古屋能楽堂定例能一角仙人の自由席券3000円込みで9600円です。定例能当日は4回目として飯塚の30分の事前解説があります。
よろしく御願い致します。
2011年4月13日 昨日は結局ビール一杯とグラスワイン一杯飲んでしまいました。数値心配ですが。今日は京都の味方健先生の能本を読む会に伺いました。大原御幸について、平家諸本、一方流の覚一本や百二十句本、城方流の八坂本などでの大原御幸の置かれる場所や潅頂の巻の扱いまで踏まえて謡曲を解釈されるのですが、解釈は自然で無理なところはないのですが、いつこれだけ勉強されるのかなあと。。謡抄の龍谷大学本が流布本より内容的に古いものを持つことや善本叢書ででていることなど、聞く人があとで調べ直しできるようなヒントまで下さる名講義でした。往復高速バスで行きましたが、楽しかったです。足元にも及びませんが、僕も調べて習った講義をしたいです。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2011年4月12日 今日は教授会、スタジオ委員会終了後学科の懇親会です。ビール楽しみに頑張ります。腎臓の数値考えてビールは一杯のみにします。皆様お元気で。
2011年4月11日 月曜日の講義なんとか終わりました。講義準備、新しい教材作成したいのですがなかなか進みません。次の葵上の論文、シテの六条御息所が冒頭からなぜ成仏を望むのかに関する論になりそうですが、きちんと調べて、講義に反映させたいです。お元気でお過ごしくださいますよう。
2011年4月9日 講義が始まりました。毎年ですがほとんど怒涛の一週間でした。立て直して頑張らねばと思います。明日は二時から津市リージョンプラザで二時から津市市民薪能事前講座「能 阿漕を楽しむ」を担当します。参加費五百円です。ボランティアで、得られた参加費は長田郷先生の能楽子供教室の活動資金に充てます。定員26人で昨日までに18人申し込みがありました。感謝です。がんばって調べた講義したいです。お元気でお過ごし下さいますよう
2011年4月6日 明日から講義です。準備しなければと思います。ほとんどつぶやきです。
2011年4月5日 今日は父の誕生日です。79歳になりますが、心身ともに健康で感謝です。子供たちは春休み最後の日なので、おじいちゃん・おばあちゃんと家内で花見に出かけています。毎年のことが今年も出来ることに感謝です。
2011年4月3日 今日はあと一枚になった18切符で長男と亀山周りで津の能楽子供教室に行きます。近鉄より遠回りで遅い分駅舎の花を観てのんびりしたいと思います。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2011年4月2日 昨日今日と、三保の松原の羽衣の碑と昭和27年11月1日の除幕式の梅若万三郎による三保松原薪能羽衣上演についての調査に行きました。静岡市役所文化振興課と、羽衣祭りを担当されている事務局の方に経緯を伺い、貴重な資料をたくさん頂いて感謝でした。万三郎先生門下の八田達弥先生に同行頂き、多くの事を教えて頂きました。家族にも来てもらって調査以外は三保の松原で釣りをしたり、伊豆長岡の願成就院の運慶作の仏像を拝見したり過ごしました。充実していて感謝でした。今回の調査は梅若研能会の「橘香」誌に投稿させて頂きたいと思っております。皆様お元気にお過ごし下さいますよう。
2011年3月31日 今日の2年生ガイダンスで在学生ガイダンスは終了です。今年度もはやかったなあと。。明日から定年まで20年、健康に気をつけて頑張りたいと思います。今月は6日に同僚の森本伊知郎先生が不慮の事故で急逝され、本当に残念でした。同い年でともに物理学者の息子で、真理探究を自分の仕事と考え研究の道にともに精進してきたと思います。森本先生は無駄話をする性格ではありませんでしたから、研究の話、委員会の話以外はほとんどしませんでした。彼は慶応で論文博士として学位取得されましたが、学風は三田学派で習って鍛えこんだ学問でした。それゆえに僕のような門外漢が読んでもわかる論文を書かれていました。あれだけの技術と蓄積を得るには、大学生が寝ずに勉強しても最低15年はかかるだろうなあと。。彼の学問の継承者が現れることと、ご遺族の幸せを祈ります。震災も早く復興されますように。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2011年3月29日 今日から在学生ガイダンスです。春休み中ですが、これが始まると新学期近いなあと思います。教務委員長なので目前の来年度の準備急がねばと思います。でも、「例年通り」の仕事が出来るのは、この震災を考えると感謝です。皆様お元気でお過ごし下さいますよう。
2011年3月28日 神戸放送文化基金研究打ち合わせ終えて帰宅しました。七月上旬までに清元・常盤津関連レコードをとりあえず百枚デジタル化して、かつエクセルに入力するためのデータの基礎資料を作成すること、そのために必要なレコード針・ハードディスク等を購入すべき事、オープンリールテープデジタル化は七月以降に行う事、後半も清元・常盤津レコード中心に放送に取り上げられている演目・出演者中心に重要なものから取りあえず年間200枚デジタル化すべきことなど。。工学関係の先生もいらっしゃったものですから、放送文化基金とは関わりませんが、古文書認識可能なocrソフトが可能かどうかや、校本・索引を文字を自動認識して作成できるソフトが可能かについてなどご相談致しました。院生を使って索引を作る昭和の仕事の仕方は現在不可能です。入力は業者に依頼するとしても一人の考え方で索引・校本を自動的に作成できないと、今後の文学の基礎資料作成は難しいです。打ち合わせの時間以外は、家内や子供達も神戸に連れていたので、須磨の鳥光で鳥料理食べたり、敦盛蕎麦食べたり、坊主でしたが須磨海釣り公園で釣りをしたり楽しく過ごすことが出来ました。日常の春休みを送れることに本当に感謝です。明日から在学生の教務ガイダンスです。頑張ります。皆様お元気でお過ごし下さいますよう。
2011年3月26日 今日は月末に神戸と静岡に調査に行く準備をします。がんばります。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2011年3月25日 今日は梅若万三郎家より提供頂いた昭和27年の羽衣ビデオのdvdからスクリーンショットを使って静止画を作成しました。昨日gomプレイヤーを使ってうまくゆかなかったので出来るか心配しましたがなんとか出来て安心しました。午後三時からは学部教務委員会でした。春休みの間に少しでも資料を論文に使える形に整理したいです。明日も頑張ります。お元気でお過ごしくださいますよう。
2011年3月23日 春休みもあと10日ちょっとです。昨日の科学研究費報告会、多くの先輩方の発表伺って大変勉強になりました。この発表したものだけでも追加調査行って形にしたいですが、なかなか調査日程も入力時間もとれません。頑張らねばと思います。皆様お元気でお過ごし下さいますよう。
2011年3月21日 震災から十日過ぎました。今なお避難者捜索や、復興支援など大変な中で数多くの方が働いていらっしゃることを覚えます。プロ野球の開幕も遅れ、浅草の三社祭は中止となりました。大規模な電力に頼っていた都市機能が、電力不足の為に維持できないのですから、仕方ないのですが、能・狂言・歌舞伎など伝統芸能も、稽古や発表の場が減って苦境になるだろうなあと思います。一日も早い復興を祈ります。伝統芸能のプロは職の分類から言えば自営業で、給与保証はありませんので。
2011年3月20日 今日は午前中は石水博物館で行われる安田文吉先生の科学研究費の報告会のプリントの作成を行い、午後から比呂人を連れて豊田能に行きます。仕事も研究も、全体的に遅れています。なんかいつもあるはずの資料探し物している、、研究資料の整理が出来ていないのですね。昨日送って頂いた拙稿二本はスキャンしてPDFを作り、アドレス教えて頂いている研究者・能楽関係者にbccで送らせて頂きました。論文は読んで頂いて、引用していただけるものでなければ意味がありません。地方で、自己満足でやっている研究になっているのではと、「教授」になって、「えりゃーさん(偉いさん)」になりつつあるので特に注意しなければと思います。お元気でお過ごし下さいますよう。
2011年3月19日 今日は元CBCの中野之也先生のお宅に研究打ち合わせに伺いました。SPレコードのデジタル化に関することです。かなり良いコレクションをお持ちの方がいらっしゃようで、紹介して頂けるとの事でした。楽しみです。新典社の古代中世文学論考25集が出来あがり頂きました。この時期国文学の投稿論文集出して下さる新典社には本当に感謝です。「豊嶋要之助筆 高安流間狂言応答」の翻刻を連載させて頂きましたが三回で今回ひとまず完結いたしました。また価値のある資料が入手出来ましたらぜひ投稿させて頂きたいです。また丹波篠山能楽資料館の「紫明」に「安宅」に関する小論を書かせて頂いたのですが発刊となり送って頂けました。丹波篠山能楽資料館は先代の中西通先生の代からお世話になっております。当代の中西薫先生も文化による町おこしに熱心に取り組まれており、とても参考になります。名古屋も民間がまず儲けて、それを文化に投資しなければ文化レベルは上がらないと思います。行政の予算だけで活性化することは難しいと思います。戦前・戦後は紡績で、その後は自動車で、「物作り」で儲けた金を投資して芸どころは成り立って来ました。今回の震災で芸術・芸能にかける行政予算の削減は仕方ないだろうと覚悟しています。でも民間は知恵を出して日本の経済力を維持発展して欲しい。。僕らは世界に通用する能の英語教材などを作成して、能・狂言の世界への輸出を図る必要があるでしょう。海外を主な活動の場とする日本人のピアニストや指揮者がいるならば、そういう能楽師や狂言師がいて良いはずです。そのためには地道な研究と教材作成が必要でしょう。頑張りたいと思います。明日は長男を連れて豊田能楽堂定例能に伺います。宇高通成の忠度楽しみです。皆様お元気でお過ごし下さいますよう。
2011年3月18日 地震から一週間経ちました。原発・津波対策など、日本の科学力が問われた週でした。僕は、非難するのは簡単だけれど、原発にせよ、津波対策にせよ、今回の事で責任者を非難する気持ちにはなれません、これまで、予算内で、考えうる最善のことをしていたから、これで済んでいるのだと思っています。予算を度外視することは、現実的に出来ないはずです。日常の生活があるわけですから。。僕はこの一週間、芸術関係の賞に能楽師さん・狂言師さんを推薦する書類の作成をし、科学研究費の報告書の作成を行い、普段通りに暮らしました。能・狂言の普及と継続の援助が僕の今出来る仕事で、その必要性は地震が起きても変わりませんから。被災地の早い復興を祈ります。お元気でお過ごし下さいますよう。
2011年3月16日 死者行方不明者が一万人を越え、原発は関係者が不眠不休で鎮静化に努めているのに火災が発生し、という状態です。ニュースは暗いですが、被災者以外はやはり「国力」を落とさないために自分に与えられた仕事に尽して、研究者・教育者は次世代の教育に励むべきだし、経済に携わる人は人に有益な仕事をして利益を出すことが大切ではと思います。天安門事件の時、中国関係を勉強したい人が減り、中国関係の勉強をしていた大学院生が就職に苦労していたのを覚えています。時が経ち、みんなそれなりの就職は出来ましたが。。理解が出来ない、もしくは不測の事態が起こりそうな時ほど、その対象を勉強する必要はあると思います。物理・地学・生物学・工学、など若い学生さんたちには技術立国を発展させるためにも堅実に勉強して欲しいです。昨日は椙山の卒業式、今日は卒業パーティです。学生さんたちみんなが、幸せになることと、勉強を続けて良い仕事をしてくれることを祈っています。皆様お元気でお過ごし下さいますよう。
2011年3月15日 日が経つにつれて被害が大きくなります。原発も本当に心配です。日本の科学力が試されているのだと思います。僕は実験物理学や工学を専攻していないのでわかりませんが、こういうことがあると特に、これからの人に自然科学系の学問もがんばってやって欲しいと思います。まだやるべき課題がたくさんあります。僕は、能の研究と普及の為の原稿書きを今日も普通通り行いたいです。それが能楽の継承に役立つと信じています。午後は椙山の卒業式、学生たちの幸せと明るい未来を祈ります。皆様お元気でお過ごし下さいますよう。
2011年3月14日 今朝の中日新聞は「行方不明数万人」、大地震から三日経ち、被害の状態が明らかになるにつれて、歴史的な大被害であったことが明らかになりつつあります。僕はツイッタ―を使っていますが、ツイッタ―は「デマ」などのマイナス点もあるものの、個人の情報が全世界で共有できる点で、災害情報の伝達にも極めて有効だと思いました。こういう時でも、、僕は葵上のイヤホンガイド原稿を書き、今日は若手能楽師を名古屋市芸術創造賞に推薦するための推薦書を書きます。このような作業も文化継続には意味があると思っています。東海東南海大地震もいつ起こるかと本当に恐ろしいです。準備はしなければと思います。皆様お元気でお過ごし下さいますよう。
2011年3月13日 大地震から二日、関東の友人や親戚は連絡がとれ、無事でいるようで感謝でした。松本にいる教え子からも自身が元気であることと、愛知県の状態を心配するメール頂き感謝でした。すごい被害だなあと。。速やかな復興を祈ります。そしてこの地域も防災を考えねばと思います。お元気でお過ごし下さいますよう。
2011年3月12日 昨日東北地方から関東にかけて大地震がありました。名古屋も少しですが長く揺れ、どうしたのだろうと思ったら東北地方は大津波などでものすごい被害がでているようです。災害復旧が少しでも早い事、人命被害が少しでも少ないことを祈ります。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2011年3月9日 今日は久しぶりに高速バスで京都往復し、味方健先生の講義伺いたいと思います。休日の京都往復は、高速バスがなかなかとれないこともあって在来線が多いので。楽しみです。お元気でお過ごし下さいますよう。
2011年3月8日 今日は一日会議でした。明日は京都キャンパスプラザの味方健先生の講義に伺います。楽しみです。自分の講義の糧になりますので。皆様お元気でお過ごし下さいますよう。
2011年3月7日 今日は雨です。一雨ごとに暖かくなる時期です。だいぶ暖かくなってきましたが、もう少し暖かくなると良いなと思います。今日は平塚先生のインタビュー原稿の執筆とイヤホンガイド原稿の執筆、夕方から古文書の読書会です。一つずつきちんと仕事して行きたいと思います。皆様お元気でお過ごし下さいますよう。
2011年3月6日 今日は午前中熱田教会の教会学校の礼拝に参加し、そのあと鶴舞図書館で名古屋叢書から年中行事の能楽関係記事を調べました。宮福太夫が熱田の翁以外に秋の神幸行列のような行事にも参加していたことを示す記事があり興味をひかれました。午後は気合い入れて原稿書くつもりが昼寝で終わりました。良い休日でした。皆様お元気でお過ごし下さいますよう。
2011年3月5日 今日は名古屋能楽堂定例能でした。本田光洋先生の清経、、やはりとても上品でよかったです。脇の飯冨雅介先生の淡津三郎、飯冨先生の師匠である故西村欽也先生を思い出させるしっとりとした雰囲気ある役でよかったです。きっと飯冨先生もお好きな役だと思います。地謡も地頭が金春安明先生でとってもよかったです。下掛の清経は脇が残って宇佐八幡の神託の和歌を詠ずるのですね。。このような演出も良いなあと思いました。楽しかったです。夕方から家内と子供連れて筑波大学の愛知県同窓会に行きました。みんな頑張っているなあと。。元気頂きました。感謝です。ではまた、皆様お元気でお過ごし下さいますよう。
2011年3月3日 今日は雛まつりです。我が家も家内が小さい時に家内の母が手作りした雛飾りが飾られています。今日はお雛様寿司だそうで、汁はハマグリの吸い物が普通ですが、野菜不足のパパの為豚汁でお願いしてあります。明日は放送文化基金贈呈式のため東京に行きます。四時からなので、午前中から午後二時まで松戸の戸定歴史館で徳川慶喜邸日誌を調査したいと思います。楽しみです。お元気でお過ごし下さいますよう。
2011年3月2日 今日は午前中蓬左文庫に伺い、名古屋の地籍図について教えて頂きました。「尾参士族名簿」や「旧名古屋士族別簿」とこの地籍図を重ねることによって能楽師や愛好者のマップを作ることが可能だなあと。。かなりの作業になりますが、資料と方法が確認できてとても勉強になりました。夕方昨年の民放懇話会の講演を聴いてくださった元CBCの松谷敦先生から、CBC放送劇団の資料がありますと電話頂き、すぐに伺いました。当時の写真、演劇関係雑誌記事など貴重資料で感謝でした。頂けるとのことでしたので、頂いて、これから整理したいと思います。CBC放送劇団の事も知る人が少なくなってきたと思います。写真など許可頂いて資料報告を紀要などにまとめたいと思います。たくさんの方に頂いた資料に整理が追い付かず申し訳ないです。頑張ります。皆様お元気でお過ごし下さいますよう。
2011年2月28日 今日も仕事たくさんありました。名古屋文化情報の原稿遅れています。明日から三月です。急いで頑張ります。。皆様お元気で。
2011年2月27日 今日は熱田教会の教会学校の礼拝に行き、そのあと鶴舞図書館で調べ物をします。尾張藩の芸能政策に関しての法令調査です。がんばります。皆様お元気でお過ごし下さいますよう。
2011年2月26日 今日はスタジオに尺八の岩田西園と息子さんの岩田恭彦先生のグループにいらして頂いて、尺八の本曲と現代曲との録音をしました。演奏も素晴らしかったですが、スタッフの方々が本当に一生懸命工夫してくださって、とても良い音で録音されています。これから加工して「尺八・いまむかし」のページか配信したいです皆様お元気でお過ごし下さいますよう。
2011年2月24日 今日は一時から三井住友パーク栄の「清経を楽しむ」の講座を担当します。昨日なぜかよく眠れずすっきりしません。午前中は家でのんびりします。皆様お元気でお過ごし下さいますよう。
2011年2月23日 今日の午前中は名古屋文化情報の「視点」の取材の為、 覚王山の揚輝荘で揚輝荘の会の佐藤允孝先生、狂言の佐藤友彦先生、新作狂言「轍」の作者の山川さとみ氏にインタビューしました。名古屋の伝統芸能の普及と継承に大きな働きをされている方々の対談形式のインタビューで、大変楽しかったのですが、これをどのようにまとめれば良いのか。。考えております。午後は研究室に新たに購入したNAS型ハードディスクの設定など、慣れていればなんということも無いのでしょうが手間取りました。なんとか出来てよかったです。ではまた、皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2011年2月22日 調査の準備、講座の準備など、やるべきこと今日もたくさんあります。多くの方に支えて頂いている責任もありますので、きちんとしないとと思います。朝から少し暗めですが頑張ります。お元気でお過ごし下さいますよう。
2011年2月21日 春休みです。今しか勉強できないはずですが、この時期でも雑用は多くあります。雑用が減ることは定年まで期待できないのでどのように能率化すべきなのか。。頑張ります。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2011年2月19日 昨日の三代真史ジャズバレエ団の坂本塾「清経を楽しむ」講座、小人数でしたがダンサーの方、企業経営者の方、民間放送の方、ホテルマンの方、大学教員など多くの職種の方がいて大変刺激を受けました。能の約束事、僕はあまりに当たり前と考えていましたが、例えば「夫婦喧嘩」をダンスで表現するとどうなるのだろうとか、「入水」とか「夫婦の和解」ならぱどう表現するのだろうと、自分の中にいろいろな質問が湧きました。三代さんのダンスは年末に初めて拝見して感激しましたが次は七月に公演なさるとのことでしたので、またぜひ拝見したいです。参加者の方、ダンス好きな方ってやはり運動神経良さそうな方多かったです。僕も健康に気をつけねばと思いました。明日は河村能舞台の林定期能、味方健先生の隅田川拝見に伺います。春休みはできるだけ自分に栄養をつけないと講義が痩せますので。。もう九時回りましたので寝ます。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2011年2月18日 去る15日夕方に名古屋伝統文化懇話会主催の伝統文化子供教室に関する説明会に伺いました。東海能楽研究会が中村教室・津教室・豊橋教室と三か所の能楽子供教室の運営に関わっているからです。文化庁の担当の方が説明に来られましたが、子供教室事業としては無くなり、今後は県・市町村の観光振興・伝統文化継承の企画の中で募集されるとの事でした。このため現在の形での能楽子供教室の継続は困難になりました。事業仕分けで評価が低かった段階である程度覚悟はしていましたがやはりショックでした。東海能楽研究会全体での話し合いはもてていませんが、津支部では、試みとして飯塚による社会人講座を行い、教室使用料(1700円)を越える黒字がでたらそれを敷舞台使用料と長田先生謝金に充てると言う試みをすることに致しました。一回やってみて人が集まるか試してみようということです。四人集まれば黒字になります。(四人も無理かもと言う意見もありますが、その場合は飯塚の小遣いで出します。)家内が受付してくれるのでなんとかなります。教室は20名教室で補助席込みで32人までです。人数がこれを越えることはないと思いますが、安全のため事前申し込み制にしてあります。興味のある方へのお声掛けをどうぞよろしくお願い致します。皆様お元気でお過ごし下さいますよう。
「能≪阿漕≫を楽しむ」講座開催のお知らせ
梅の便りも聞かれ、本格的な春が待ち遠しい季節です。来る4月23日土曜日に、津市お城公園で津市市民薪能《阿漕》が行われます。これに先立ち薪能の解説者でいらっしゃいます飯塚恵理人教授による、「能《阿漕》を楽しむ」という能楽初心者向け鑑賞講座を開催致します。《阿漕》のビデオを鑑賞しつつ、当日の見所、面・装束について、能を初めてご覧になる方にも分かりやすく解説します。能に関心を持たれる多くの方のご参加をお待ちいたします。
期日 平成23年4月10日 午後2時から3時半
場所 津市リージョンプラザ第二会議室(津市市役所横)
題・講師 「能《阿漕》を楽しむ」 椙山女学園大学文化情報学部教授 飯塚恵理人氏
参加費 500円
できるだけ事前申し込みをお願いいたします。空席がある場合のみ当日受付します。
<申し込み先>
住所・氏名を明記の上、郵便かファックスで下記の所までお送り下さい。電子メールでも受け付けします。
郵便あて先
〒464-8662 愛知県 名古屋市 千種区 星が丘元町17-3
椙山女学園大学 文化情報学部 飯塚研究室
ファックス 052-781-6651
必ず「文化情報 飯塚あて」と書き添え下さい。
メールアドレス erito7@hotmail.com
メールの題を「津市民薪能事前講座申し込み」にして下さい。
定員に達した後のみお断りの御連絡を致します。それ以外は連絡致しませんのでご容赦ください。
主催:東海能楽研究会 三重県支部・喜多能楽師 長田郷
2011年2月17日 一昨日連れて行って頂いた加藤氏のコレクション、明治から戦後までの流行歌主体ですが素晴らしいものでした。レコードのみならず、レコード会社の発売の目録も集めていらっしゃいましたが、もう入手できそうもない貴重なコレクションだと思います。私のホームページのレコードには「発売欄」がありません。編年は無理と諦めていたからですが、加藤氏の御協力頂ければ可能と思いました。。愛知県にはまだ私の知らない優れた市井の研究者がいます。非常に啓発されました。皆様お元気でお過ごし下さいますよう。
2011年2月15日 今日は中野之也先生にレコードコレクターの加藤氏の御自宅に連れていって頂きます。戦前の芸能文化を考える上で、まずレコードがいま残る一級資料だと思います。雪も消えて感謝です。皆様お元気でお過ごし下さいますよう。
2011年2月14日 今日から研究室の雑誌の裁断とスキャン始めます。「資料が使えない状態にあることが一番もったいないのだ」と割り切って進めたいと思います。皆様お元気でお過ごし下さいますよう。
2011年2月13日 今日は、友恵を連れて、津の子供教室に行きます。伝統文化子供教室事業は文化庁の方針としてはなくなる予定で、そうすると子ども教室としてはこれが最後になります。来年度どのようにするか話し合わなければなりません。なんらかのボランティア組織を立ち上げて、中村・津・豊橋の子供教室を継続させる仕組みを考える必要があると思います。みんな目いっぱい忙しい中で、能の普及のために何が可能か考えたいです。僕は、組織が出来て依頼されれば、味方健先生の鶴山塾のような能楽の講座をボランティアで持ってもよいなあと思います。能の作品と、東海地域の能の歴史について講義することにすれば、僕にとっても勉強になりますし。ただ、却って赤字が出る可能性もありますが。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2011年2月12日 今朝恩師から、飯塚君からまたフェイスブックの招待メールが来たのだがと言うメール頂きました。私は送った覚えがなく「成りすましメール」と思いますと御返事致しましたが、御迷惑かけて恐縮でした、とここまで書いてアップロードしたら、自分の別アドレスに私からの招待が来ていると書いてあるのに気づいた。1月14日の誤って全員に送ったメールで承認しなかった人にfacebookが再度送信したらしい。「問題点を報告」からこのように繰り返し送ることのないようにと要望したが、今回は送られたほぼ全員が不快な思いであろうことを考えると、このfacebookの仕組みに怒りを覚える。招待メールを送った全員のアドレスを表示して招待のキャンセルとお詫びが送れるシステムを作って頂きたい。便利だが、「取り消し」が出来るしくみがないのは大きな欠点だと思う。
2011年2月11日 朝釣りに行こうと起きたら、外に雪が降っていました。釣りはあきらめ、勉強します。研究室も自宅も、未整理資料が多くなりすぎ、自分で持っていることが確実なのに探せなくて図書館で借りてコピーするなどと言う事が多くなってきました。研究費でscan snap購入したので思いきって来週から雑誌のバックナンバー裁断して取り込んでpdf化して、雑誌そのものは処分する作業をアルバイトの方にお願いすることにしました。スタジオに研究費で購入したカメラやビデオデッキなど置かせて頂いておりましたが、ハイビジョン化に伴う機材更新のため撤去する必要があり、研究室に持ち帰る必要があるのも大きな理由です。学生時代からそれこそ食費切りつめて購入したり、先生や先輩に頂いた雑誌まで裁断するのはかなり悩みました。でも「今使えるのか」と言われると必要な時に探せないので全然使えないのです。ハードディスクに入れておけば題名で検索できます。使えない状態で置いておくよりも、「情報」を取り出して処分した方が「もったいなくない」だろうと。。家も研究室も狭いのでしかたないです。来年四月から六月まで韓国に国外研修に行きますがノートパソコンと僅かな本しか持ってゆけないだろうとも思いますし。。ではまた、お元気でお過ごしくださいますよう。
2011年2月10日 今日は21回目の結婚記念日です。一家仲良く健康に恵まれ感謝です。ケーキ買ってちょっと豪華な夕食でした。講義がないので午前中は蓬左文庫に内藤家についての調査に行き、午後から研究室の資料整理をしました。明日の午前中は比呂人を連れて久しぶりに釣りに行きたいです。根魚狙いです。雪が降ったらだめですが。。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2011年2月9日 今日は午前中講義がありませんので、愛知県公文書館に「旧名古屋藩士族別簿」に載る明治になって能楽師としての活動を始めた人の記録を調べに行きます。午後は会議、夕方からは飲み会参加を予定しています。飲み会を楽しみに頑張ります。お元気でお過ごし下さいますよう。
2011年2月8日 昨日韓国への国外研修の計画を立てなければと思っていたらツイッタ―に徐君からのメッセージが届いて感謝でした。僕のツイッタ―での名前はikenofunaです。短文だから忙しくても送れる。。彼は日本学研究所の所長だから、事務処理は僕の比較にならないくらい多いのです。話していると中身は大阪人なのですが。。楽しかったです。今日は教授会。会議はきらいですが、教務委員長としての仕事は粛々と行いたいです。東海能楽研究会の頁に筧鉱一先生編集の「能楽を愛好した人の思い出集」のPDFファイルを頂いて公開しました。後世に残る貴重な資料だと思います。今日は、クリスマスの日に27歳で心不全で亡くなった住正哉君の誕生日でもあります。生きていれば49歳。。いい先生だったろうなあと。。。彼にパソコンの手ほどき受けたから今の自分があるので、感謝しつつ頑張りたいと思います。皆様、お元気で。
2011年2月7日 今日はシラバスの最終手直しと東海能楽研究会の年報執筆をします。来年の四月から七月まで、国外研修で韓国に行きたいと考えています。戦前日本人社会の芸能と、韓国を併合していた時代の朝鮮総督府の芸能政策について基礎的な調査をしたいと思います。このための研究計画を立てなければならないと思います。徐禎完君にいつもながらお世話になる予定です。五月に申請なので、この時期に作っておかなければと思います。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2011年2月6日 今日は東海能楽研究会です。前回調査で欠席したので久しぶりです。橋場夕佳氏の発表楽しみです。終了後懇親会があります。文化庁の方針では伝統文化子供教室事業は廃止して、観光や地域振興に結び付くイベントや後継者養成にシフトしてゆくようです。数年前からの流れですが東海能楽研究会は子供教室事業を一つの柱としていますので、今後のことを考えなければなりません。大相撲春場所が中止の流れとかで、新聞に出ています。僕は昔から「部員の不祥事で甲子園出場辞退」とか「廃部」とか、連座制度には釈然としないものがあり、今回も関わっていない力士まで巻き込んで中止にする事は個人的には反対です。関わったものが責任取るのは当然ですが関係ない人を巻き込むのはさけるべきです。連座制が当たり前の江戸時代ではないのだから。連座制度がこれまで不祥事の抑止効果をもっていたのは確かでしょうが、いまそれが抑止になるのかどうか。場所がはじまってから露見すれば、その人をその日から謹慎させ、確実になった時点で追放すればよいと言うのが私の個人的な意見です。そんなに単純ではないのでしょうが。皆様お元気で。
2011年2月5日 今日も入試です。暖かくて感謝です。今日は非番なので子供の授業参観に行きました。昔の授業参観は普通の「授業」で教師の「腕」を観るものでしたが、最近は違うのですね。五年生の比呂人のクラスは「学校給食制度はあったほうがよいかないほうがよいか」のディベート。三年生の友恵は障害に打ち勝って夢を叶えた町内の方にインタビューしてみんなで作った作文の分読。全員の子が少しずつ出番があるように作られているのですね。比呂人はディペートのまとめ役と次のディペートの進行役友恵は分読ですが、四人分を三人で分担したため二人分読みました。比呂人は学校給食賛成派のまとめ役として反対派の給食よりもお弁当の方が残り物使えるから安いと言う論拠と特に牛乳はアレルギーなど身体によくないという論拠に反論し、流れをまとめましたが、原稿棒読みにせず、原稿に目を落としつつも聴いている四年生の方にも顔を向けて話していました。結果勝利でしたが、相手に強い子がいたので予想は負けだったらしく、「桶狭間の織田軍だったなあーー、危なかったけど」と言っていました。。友恵は発音がしっかりしていてどうどうとして声大きくてよかったです。二人とも謡曲の稽古の効果でているなあと。近くの両親も来てくれました。感謝でした。素直に、元気に育って長生きして欲しいです。いまの小学校の授業見ていると「暗記部分」は自宅学習にまかせ、「議論の方法」や「発表」などに力点を置いているように感じます。僕は「暗記」も「詰め込み」も大切と思いますのでその部分は「塾や親が指導できる子とそうでない子でものすごい差がつくのではないか。」と多少心配ですが、全国的に小学生が多国籍化してブラジル・中国・韓国などの子も多い環境が今後多くなるでしょうから、そういう場合「異なる文化を持つ人と議論する」訓練は必要で、このような取り組みは効果があると思います。子供の成長に感激するとともにこういう授業を受けてきた学生が、もうすでに、あるいは確実に七年後には大学にはいっていることを「教えられてきた内容」と授業方法を意識して教材作成を行いたいと思います。皆様お元気でお過ごし下さいますよう。
2011年2月4日 今日も入試待機です。曇りですが、そんなに寒くないので感謝です。昨日静岡市役所文化振興課より、三保の松原の羽衣の碑と羽衣祭りに関する資料を頂きました。昭和27年の時点で、行政と市民と能楽界が連携して、三保の松原にフランスで羽衣を素材にした舞踊を上演した故エレーヌ・ジュグラリス夫人記念の羽衣の碑を建て、先代梅若万三郎を招いて能を行った資料です。とくにいただいた後援団体である「日仏ハゴロモの会」規約や、「故 エレーヌ・ジュグラリス夫人顕彰趣意書」「エレーヌ・ジュグラリス夫人記念碑建設経過報告」からはこの碑が行政・市民運動・能楽界が連携して建てられ、能楽の海外公演の先駆となった過程が明確にわかり、大変価値のある資料と思います。今後、能楽雑誌等で紹介させて頂きたいと思います。感謝でした。三月くらいには僕ももう一度三保の松原に顕彰碑を見に行きたいです。学生時代に見たきりなので。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2011年2月3日 今日から三日間椙山の入試です。よく晴れて暖かくて感謝でした。今日明日と当番で早出です。三日とも晴れて暖かいと良いなあと思います。皆様お元気で。
2011年2月2日 今日も採点です。皆様お元気で。。
2011年2月1日 今日は会議と採点でした。なかなか良いなあと思うレポートと。。手抜きだよなと思うものと、毎年ながら思いました。明日も採点です。頑張ります。
2011年1月31日 今日は雪です。電車通勤にしますが、午後からの仕事なので午前は自宅で昨日の資料整理をします。皆様お元気で。
2011年1月30日 今日は朝は熱田教会の教会学校中高科の説教奉仕。キリストの死と百人体長の告白の部分。家内には声に張りがなかったと注意されました。疲れているかも知れません。すぐに家内と子供とともに津に向かい、僕は石水博物館で調査、子供達は長田郷先生の子供能楽教室。。普段ならば車ででかけて帰りに息子と釣りをするのがささやかな楽しみなのですが、雪の予報だったので電車で行きました。結局帰りまで晴れていましたから、釣りはできたかも知れませんが。。時間のある時に息子連れて釣りに行きたいです。安城に帰宅してからいつものサイゼリアで食べました。良い休日でした。明日は研究資料の整理と採点、夜は読書会です。引き続き雪に注意が出ていますが、雨であってほしいです。皆様お身体に気をつけてお元気でお過ごし下さいますよう。
2011年1月29日 大学の演劇サークルから公演のチラシが届きました。入場料千円。。場所代のカンパ集めの料金だと思います。いつもは見逃していますが、素人の合唱団でも、踊りの会でも、実際は出演者のチケット割り当てで招待券ばかりだとしても、みな「有料」です。「無料」にすると会場にホームレスが入り込んでベンチで寝てしまうからせめて整理券にしないとと言う、都会特有の問題はあるでしょうが能では素人会は整理券はあっても全て素人が負担をするもので無料です。それは能の催しは、主催者が観客を接待するための場だった長い伝統によります。知らない人が観に行っても、全員に弁当がでる催したくさんありました。こういうシステムも、そろそろ見直して他の演劇と同じにしてもよいのではと思います。有閑階級や有閑マダムはいないので。。能を愛好しているのは今や庶民です。筧先生の『能楽を愛好した人々の思い出集』を拝見しながら考えていました。今日は石水博物館に調査に伺います。お元気でお過ごしくださいますよう。
2011年1月27日 筧鉱一先生から、先生御編集の『能楽を愛好した人々の思い出集』を頂きました。能楽関係者の生の声を収録した貴重な冊子だと思います。感謝でした。しかし、拝読して思ったのは、戦前の能楽界と現在では、能楽を支えるシステムがまるきり違っているのだなと。。愛好者・旦那衆が大口のお金を出して能楽を支えるというシステムは昭和の頃までありましたし、僕の中学・高校くらいまではそれが機能していたと思います。お金を持つ素人が催しでも力ありました。戦前の能楽師って、自分が旦那衆で、それで食べていない。。大地主や商家の主人で仕事は番頭や家族に任せ、道楽として「プロ」という形で能楽師をしている人が東海地方には非常に多かった。。その具体的な「証言」が書かれています。研究書ではなく、ほとんどは筧先生に寄せられた書簡で、その抜粋になっています。新聞などの記録では残らない、それゆえに「正確さ」には多少の振幅もあるでしょうが、関わった方々の思いを伝える意味では第一級の同時代資料だと思います。戦前の大金持ちの方々にとっても、不況、農地解放、財産税、分割相続など、かなり厳しいものがあったようで書簡には戦後の厳しさを伝えるものが多くあります。戦後の資本家と無産者階級との「階級闘争」が能楽にも無縁でなく影響を与えているのですね。戦前は採算度外視の「道楽商売」だったけれど、戦後は「教えて」食べなければならない。「芸が身を助ける不仕合せ」で商売を畳み、土地も手放さざるを得ず、会社員など副業をしながら能楽師への道を選んだ人もあるようです。社会システムの変化を見据えながら、近代能楽史について勉強しなければとあらためて思いました。資料などでお世話になった方には筧先生に頂いた分からお送りしなければと思います。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2011月1月26日 おとついのことですが、野村小三郎先生から五月に野村又三郎を襲名されるという挨拶状を頂きました。心よりお祝いしたいです。父上の又三郎先生は、本当に苦労されていて、僕が大学時代、もう五十越えていらしたけれど、東京ではほとんど野村萬師か万作師のアドでした。シテを主に出来たのはいまの小三郎さんが成長された晩年の十年ちょっとだったと思います。僕の印象は助演の名人でどんなシテもうまくリードして二割くらい普段より引き立たせてしまう、そういう芸でした。あと間狂言が佳かったです。砧とか天鼓とかそういう間狂言の姿が印象に残っています。小三郎さんの先日の名古屋御前能の松風の替之教を拝見しながら、又三郎先生偲んでおりました。満を持しての襲名で、これからが期待です。ではまた、皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2011年1月25日 昨日の武山隆昭先生の最終講義、僅か50分たらずの小学校の一こま分の時間でしたが名講義でした。これまでの研究生活を回顧する形の最終講義が多い中で、「小学校 国語科における古典の指導」という題目で、これからの小学校における「古典教育の必要性」「あるべき古典の指導方法」と「授業の実践例(模擬授業)」を見せられた点で、「これからのあるべき小学校教師を目指す人の教育」を考えさせられる前向きな最終講義でした。プリントは表裏印刷のB4二枚で、一枚目表に来年度実施される新学習指導要領に新設された「伝統的な言語文化」について揚げ、二にそれを踏まえた現行の国語教科書と新国語教科書の比較ー古典の掲載状況を挙げられました。取り上げる教材の題目で古典が増えており、文語調の文章などを音読して親しむといった教材も入っていることが確認できました。愛知県は尾張・名古屋が光村図書と三 河が東京書籍を採用する小学校が多いようですが、発展学習用の別冊まで考えると三省堂や教育出版の教科書が一年生から六年生まで各学年においている点で古典教材は充実していると言われました。最後に「枕草子」の「春は曙」と「平家物語」の「祇園精舎」をプリントに揚げられ、曙は夜が「ほのぼの」と明けてくる様子で日の出の一時間前から十五分くらい前までの感覚かなあと説明されました。黒板の字も読みやすく大きめで研究授業の御手本のような授業でした。武山先生は多くの高校教科書書かれていますが、細かいきちんとした仕事をされる先生なのですよね。住吉物語の研究など中古文学の先生でもありますが、本領は国語教育の先生なのだろうと思いました。あの見事な構成の授業の方法を、教育学部や国際コミュニケーション学部で武山先生の薫陶を受けた学生さんは引き継いで行って頂きたいと思います。定年後特任教授をなさっての退任ですが、「余力を残しての引退」という感が強いです。完全引退で非常勤もなさらないということで残念ですが、著述などで教えて頂きたいです。小学校で古典が入る以上、小学校教師を目指す人にも古典に親しんで貰いたいです。古典に携わる教師として、我々の責任もあるなあと感じました。勉強になり感謝でした。皆様お元気でお過ごし下さいますよう。
2011年1月24日 今日は昼休みに能楽部の懇親会、昼過ぎに研究打ち合わせ、夕方武山先生の最終講義に伺い、夜は人間学研究センターの研究会と予定がつまっています。提出された卒業研究の審査もしなければなりません。忙しいですが頑張ります。皆様お元気でお過ごし下さいますよう。
2011年1月23日 今日は京都の林定期能に行きました。味方健先生の老松を拝見するためです。新幹線でゆくだけのお小遣いはありませんから土日限定の青空フリー切符2500円を購入し、区間外の米原京都間往復2220円を足して京都まで行きました。貧乏性なのですきやで大盛り牛丼380円に豚汁セット160円をつけて昼飯にし、12時開演なので地下鉄で東山に行き京都観世会館に開演前につけました。味方先生の老松、堅実でよかったです。梅と松と言う言葉の持つ祝言性についてあらためて考えさせられました。林喜右衛門の三山、三山という曲を観た記憶がはっきりないので、初めてだったかも知れないと思います。林喜右衛門って名古屋では一調や独吟が多くてそのイメージが強いのですが上品で良いなあと思いました。終曲の時、シテが橋掛りに行くよりも前に大きな拍手がおこり驚きました。初めて能を観る人が相当多いのだと思います。定期能なのに、当日パンフに今日の演目の演出や粗筋について細かく解説したものをコピーで配布し、開演前には演出や見所について河村晴道による20分の解説があり、「稽古している人」以外を対象にしていると言う意識と、それに対応した教材の用意がなされているのですよね。。名古屋はここまでの教材準備がまだ出来ていません。まだ稽古している人によって能が支えられているから良いのですが、教材作成のノウハウと準備はもう必要だと思いますし、わたしも準備したいと思いました。新たな愛好者には必ずそれに合わせた教材が必要だと思います。野守拝見したかったですが京都の街も歩きたかったので失礼し、祇園通って京都駅までぶらぶら歩き、王将でチャーハンと餃子食べて、お土産に漬物買って帰りました。楽しかったです。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2011年1月20日 昨日の古都先生の稽古、先週と二回でゼミ生8人が(前の古都先生の助手の西川古瑛先生を見ながらですが)「梅と松とや」の一番が踊れるようになり感謝でした。かわいいかばん一つもって自分でも可愛いと思え、彼からそう言ってもらえるうちは古典芸能など興味もてないかも知れません。同窓会でも40歳過ぎると和服着て参加する女性多くなりましたが、そのころに「上品な女のひと」っていいなと思うのだと思います。稽古の壁を低くしたい。このために体験的講義増やしてゆきたいです。西川古都先生・助手の古瑛先生に感謝でした。お元気でお過ごしくださいますよう。
2011年1月19日 今日は卒業研究指導1で西川古都先生による二回目の舞踊稽古です。端唄の「梅と松とや」を稽古します。楽しみです。
2011年1月18日 西村高夫先生に録音して頂いた松風を「御稽古場 観世流」から公開しました。66と67番です。感謝でした。
2011年1月17日 今日は雪により朝電車が三時間近くとまり、大学に着いたのは昼過ぎでした。安城星が丘三時間半は私にとって記録でした。車では積雪で行けなかったです。帰りにはほとんど溶けていて安心でした。PCのレジストリ除去のフリーソフトを色々試しています。フリーと書いていながらスキャンのみで修復しようとすると登録が必要で有料と言うものが多く、納得行きません。もうけなければならないので自然ではありますが。。今日卒業研究締切日、卒業予定者全員出せてよかったです。皆様お元気でお過ごし下さいますよう。
2011年1月16日 昨日face book はじめて昨日だけで10名以上の方にメッセージ頂き感謝でした。感謝でした。ゼミの卒業生や、演劇関係の若手研究者には使っている人多いのだなあと。一方、間違えて同僚や上司などにも送ってしまったため、招待を不快に思われたであろう方も多いと思います。すいませんメール書き続けています。名古屋は寒いです。センター入試2日目、何事もなければよいと思います。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2011年1月15日 今日facebookに登録しました。iizuka eritoで本名です。mixiは学生・卒業生のみにさせていただいていますが、これからもっと広い会議室的な場が欲しかったので。ただ、私の操作ミスで、hotmailの連絡先登録してある全ての方に招待状送ってしまったようで反省しています。取り消しのメールもうまく送れず。。ネットの便利か恐ろしいところでもあります。ただ、しばらく連絡とれなかった方からメッセージ頂けるとやはり嬉しいです。能楽の普及に、研究交流に、有効に機能させて行けると良いなあと思います。今後ともどうぞよろしくお願い致します。お元気でお過ごし下さいますよう。
2011年1月14日 今日は安田文吉先生の科学研究費の分担者調査で、津の石水博物館の謡本調査に行きます。謡本の一つに、ワキ方と狂言方の応答の本文を余白に書き込んでいるものがあるのですが、これまで私が拝見していた狂言応答の本よりも古い江戸時代初期から前期に書かれたものである可能性があります。流儀などはわかりませんが、とにかく書き写してきたいです。楽しみです。皆様お元気でお過ごし下さいますよう。
2011年1月13日 今日は能・狂言の講義に西村高夫先生にいらして頂き、清経を謡って頂きました。能で使用する女面も持ってきて頂き、感謝でした。学生たちの中から、今すぐでなくとも能を稽古してくれる人が出ることを祈っております。明日は津の石水博物館調査です。楽しみです。お元気でお過ごし下さいますよう。
2011年1月12日 今日は卒業研究指導2で西川古都先生に端歌の「梅と松とや」を教えて頂きました。市丸のSPレコードを録音したテープをかけて稽古したのですが「梅と松とや 若竹の 手に手引かれて 〆飾りならば 嘘じゃないぞえ 本俵 海老の腰とや 千代までも 共白髪 ヨーイ ヨーイ ヨノナカ 良いところへ ゆずりはの でも まあ 明けましては 目出度い 春じゃえ」で新年らしく楽しい稽古で感謝でした。夕方からは図書館で尾張徳川家の能楽研究の先行研究を調べました。山川暁氏の「尾張徳川家演能の研究(一)「藤田家蔵『御能御囃子留』について」」(金鯱叢書第22輯 徳川黎明会 平成7年10月発行 P247-289)と同じ山川氏の「尾張徳川家演能の研究(二)「大倉七左衛門家蔵『能囃子組』にみる尾張徳川家の演能」」(金鯱叢書第24輯 徳川黎明会 平成7年10月発行 P111-193)は本当に参考になる労作だなあと敬服して拝読しました。この基礎研究と他の能楽師の記録・藩の芸能政策から考えて行きたいです。皆様お元気でお過ごし下さいますよう。
2011年1月11日 今日は教授会でした。いつもより短く済んで嬉しかったです。終わった後少し勉強出来ました。
2011年1月10日 疲れていたのか、朝起きたら10時でした。半日寝ていたのだなと。。連休最後の日なので、家で原稿書きと資料整理をします。非常に寒いです。風邪に気をつけないと。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2011年1月9日 今日は休日ですが出勤しています。研究なかなか進みません。東京のレコードコレクターの方から、一瀬正巳著『耳の至福、眼の悦楽』という本を頂きました。個人出版で平成13年発行ですから、この本自体がすでに珍しい本でしょうが、よく出版して残して下さったと思える、大正から平成にかけてのレコード文化・音楽・演劇に関する同時代の貴重な証言になっています。一瀬正巳氏は神田のレコードの専門店冨士レコードの部長をされていた方で昨年100歳で亡くなられたとのことですが、戦前から映画・歌舞伎・新派・音楽などに耽溺されて、そのレコードを収集されていたので、鑑識眼も本当に高かったのですね。研究書ではありませんが、市井の人の記録として、非常に価値が高いと思います。演奏家の写真やレコードラベルの写真も貴重です。こういう記録が遺され、蓄積されることによって日本の音楽・演劇・レコード文化研究も進展し、豊かなものになると思います。送ってくださった方に本当に感謝でした。皆様お元気でお過ごし下さいますよう。
2011年1月8日 年賀状を通して読んでいます。卒業生の結婚・出産など喜ばしいニュースの多い中に、文学部でお世話になった嘉藤良次郎先生が昨年亡くなっていたという残念な連絡もありました。心よりご冥福をお祈り致します。今年は良い年でありますようにと思います。今日は石水博物館に調査に伺います。がんばります。皆様お元気でお過ごし下さいますよう。
2011年1月7日 昨日間違えて歩きながら携帯を落とし、それを踏んでしまって壊してしまいました。現在携帯なしです。とても不安ですが、メールはチェックしておりますので、連絡はerito7@hotmail.comに頂きたいです。皆様お元気で。と書いて出勤しました。帰宅したら名古屋市立短大名誉教授小島廣次先生が先月逝去されたと言う連絡があり、驚きました。名古屋の能楽史について本当に多くの箏を教えて頂きました。特に尾張藩の藩士の格と給料の払い方について、知行・知行代・合力米・切米・扶持・石・俵の違いなど。。出す前の論文を直して頂いたこともあります。心よりご冥福をお祈り致します。頑張って勉強しなければと思います。お元気でお過ごし下さいますよう。
2011年1月5日 今日は三日から千葉に里帰りしていた家族が帰宅します。越冬用に家内が作ってくれたお節料理も食べつくし、明日から僕は講義、子供達も塾で冬休みも終わります。越年となった部屋の資料整理はいつ終わるか分かりません。頑張ります。
2011年1月4日 今日は徳川美術館の企画展示「尾張徳川家の能」展示の初日でした。午前中早速でかけました。さすがに優品揃いだなと。。展示品を拝見して着付や胴
着など、消耗品の「下着」に類するものまで分類されて残っている と言うのはすごいなあと思いました。襟に「能方」「狂言方」とあるのは能方と狂言方に分けて襟を貸していたためと思いますが、こ
ういう消耗品が残っているのは珍しいと思います。早稲田大学の研究グループが近年「梅若実日記」を翻刻して公開したことによって、尾張老侯(慶勝)が梅若実の自宅に行って能を明治の始めから見物していたり、
梅若実宅に近臣の嶋沢九右衛門を使いに出していたりと言う事が分 かり、報告されていますが、この保存の良さは明治になっても慶勝 が能を好み、華族能などで用いていたことと、名古屋の東照宮祭礼能などで貸し出していたことが大きいと思います。(名古
屋博物館舞台開館の頃、徳川家に関係ない催しに装束は貸さないとなって、大騒動になった記事が、新聞に載ります。関戸家が本願寺から 大量の面装束を購入するのはこのためです。)
今回展示されていた装束は、能楽師の家の伝来品と異なり、痛みが非常に少ないです。半切袴や大口など能楽師の品はほとんど裾が ほつれて弱っているのですが、袖口にほつれがありません。あと襟
もとに汗染みがないのも珍しいです。普通まっくろなので。。それほどは使われていないなと。。それに反して能面は落箔や、面紐のすれのあとが残り、使われていただろうと思うものが多いように思
います。
私も今年五十になり、定年まで残り二十年になります。三十で勤め折り返しにな りますが定年前に尾張藩能楽史の研究はぜひまとめたいです。尾張 藩御役者は、勤務地が京都・奈良・名古屋・江戸の四か所に分かれ
て分属し、普段はそれぞれの場所の能に出勤し、代変わり能のように大きな能の時のみ全員集められること、野村又三郎家が一時加賀藩と二 重に扶持を得る、藤田六郎兵衛家が一時因州池田家の扶持を得るなど
など、二重勤仕の者がいることなど大きな特徴です。尾張藩の能は 結局名古屋城の能ばかりでなく、市ヶ谷・四谷の藩邸、京都御所、 南都薪能、の四か所で考える必要があり、幕府や皇室のイベントに
、直接費用を出すのではなく藩のお抱えという人を提供することに よって支えていたと言うシステムを明らかにしてゆく必要があると 思います。充実した展示で楽しかったです。皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2011年1月3日 新年三日目です。今日は津の子供教室の発表会がありますので津に行きます。能楽堂の翁も観たかったですが・・皆様お元気でお過ごしくださいますよう。
2011年1月1日
新年明けましておめでとうございます。大晦日は紅白見ずに寝ていたら子供が「天城越え」のバックで観世喜正先生が舞っているよと起しに来ました。嘘だと思ったら本当でびっくりしました。「紅葉狩」の前ジテの男を誘惑する正体は鬼女の女性かなあと思いましたが。。上品で綺麗でした。能は700年前は確実に商業演劇で、他ジャンルとの交流も盛んにしていたのですから、そういう意味ではこのような試みも面白いと思います。今日から日記は「五十坂」です。下は本年の我が家の年賀状です。本年もよろしくお願い致します。本年が佳き年でありますよう。
明けましておめでとうございます。
旧年中は大変お世話になりありがとうございました。双方の両親とも健康を守られ、一家健康に過ごせましたこと、心より感謝致しております。
本年恵理人は満五十歳となります。先生や先輩に教えて頂いたことを、どのようにコナンやポケモンやプリキュアで育った世代に伝えられるか考えたいです。尾張藩の能楽史の研究、ラジオ放送と古典芸能に関する研究の資料調査も続けたいです。
佳恵は小学校のボランティア、熱田教会婦人会などに忙しい日々を送っております。比呂人は津市市民薪能で「鞍馬天狗」前場の子方を勤めました。釣りにはまっています。友恵はエレクトーンや踊るのが大好きでおしゃれ小物を集めています。
本年もどうぞよろしくお願い致します。
本年が皆様にとって佳き年でありますよう。飯塚恵理人・佳恵・比呂人・友恵・金魚・鮒・めだか一同(増えたので数えられません。元気です。)