こうした中で、和地山練兵場(現;和地山公園)の借用は、大正8年4月26日に統監部が、歩兵第67連隊を訪ね、この地を凧合戦の会場にと申し入れたことから始まった。それに先立って、和地山と馬生の住民が農作物の保護を理由に凧合戦会場としての貸与に反対していたが、連隊側は、警備に十分注意すること、農作物に被害がでた場合にはこれを十分に手当てする事を条件に、練兵場の使用を許可した。
それは浜松出身の兵隊は商家の出が多く、全国的にも体格が劣っているので、男性的で活発な凧揚げが身体を鍛える手段のひとつと考えられたためだという理由があったようである。
以降、第二次世界大戦が始まる直前まで、毎年和地山の練兵場を舞台に、勇壮な凧揚げ合戦が繰り広げられた。
そして終戦。戦争で焼かれた浜松が復興へのしたたかな足どりをきざみ始めた昭和23年、凧揚げ会場合戦を一時的に中田島に移し、浜松市連合凧揚会主催で第一回の凧揚げ合戦が、城下町24町を中心に、50町余りの参加を得て盛大に開催された。そして、昭和25年には、市民あげてのおまつりにとの願いを込めてないよう、組織も充実させ浜松まつりとして名称をかえるとともに浜松市自治会連合会、浜松市観光協会、浜松商工会議所、そして浜松市の四団体の構成による浜松まつり本部ができ今日にいたっている。
戦前は、40から50か町の参加により開催していたが、平成7年度凧揚げ合戦には、158か町、そして夜の御殿屋台の引きまわしに74か町の参加となり、史上最多の記録を毎年塗り替えている。
また、中断していた高校生の参加も平成5年度から復活し、文字どおり子供からお年よりまで、また男女を問わず参加できる市民あげてのおまつりとして大きく成長している。