〜The History of the Hamamatu Festival 〜
浜松まつりの特徴のひとつは、東京の天下祭りや京都の祇園祭とは異なり、神社仏閣の祭礼とは一切関係なく、いわゆる都市まつりということである。
浜松まつりの凧揚げの起源は、酒井真邑が江戸時代に書いたという「浜松城記」によると、今からおよそ430年前の永禄年間(1558から1569年)引馬城主飯尾豊前守の長子義廣公の御誕生祝に当時の入野村の住人、佐橋甚五郎の発案によって、義廣公の御名を大凧に記して城中高く揚げたのが、その始まりであると言い伝えられている。
日本の標準型の角凧もこの時生まれたようで、参勤交代によって江戸から痴呆に分散していった。特に今の静岡は、東西の文化の接点であり、凧の文化もその例外ではなかったと思われる。とりわけ当地方は、絵と形が非常にバラエティに富んでいることから凧銀座と呼ばれ、また遠州灘から吹き上げる風は、凧揚げには、絶好のものであった。
相良・横須賀・袋井などに多くの凧があるが浜松でも1670年には、浜松藩に24ヶ町の職人の町が生まれた。伝馬・塩・鍛治・元魚・田・千才・高・紺屋・肴・旅篭・坂屋等々であり、後の凧揚会の中心を担う町々であった。
初凧・凧合戦が本格化したのは、明治20年頃からである。長男が生まれたら、その子の成長を願って凧を揚げる初凧の風習は、遠州地方に広がった。西は豊橋から東は見付、浜名湖岸や山間部まで拡大していった。嫁の里から凧が贈られ、贈られた家では糸や用具を整え、それを近所の若者が揚げた。初家は、酒と肴と柏餅を振舞った。
その後、浜松以外では、こういった初凧の風習は、止めてしまったものも多いが、浜松だけは今日まで続いている。それは、気質・土地柄といった民衆のエネルギーが、凧合戦を各家庭のものからグループ、町へと拡大していき、初凧(初節句)と凧合戦が、ひとつになって発展したからではないだろうか。そして、各町があちらこちらの広場で行っていた凧揚げを一ヶ所にまとまようという気運が高まり、鉄道の敷地を借用して行うようになった。この頃から自主的な管理組織としての統監部が結成され次第に組織化されていった。