東軍流


奉納する神社は、直心我流と同じ渋川神社である。

この流の演技は、ゆっくりした動きのものが多い。

これは、攻め一点ばりの型が多いので、早くなりがちになるのをおさえる意味でもあった。

貞享元年(1684年)、伝昌院伝寿によって始まり、

印場地区北部の斎場、塚本などの姓の人々によって伝えられている。

この流は「直師夢想東軍流」が、本来の名称であるが現在は東軍流と略称している。

江戸時代の修験者は、村落に定住して村人のために祈ったり、呪法を行い、

村人の精神生活を指導していることが多い。

山伏修験は本来、果敢な峰入修行をつんで、験力を充実させることにつとめた行者である。

それゆえに封建的な拘束の厳しい時代の農民から信用され、帰依をうけている。

農民の巫呪に対する依存は、とても強く山伏の存在意義も大きかった。

この地方の祭りに棒の手が定着するようになったのも修験者の力である。

同時に修験者の絡んだ流派の成立が早いのは、このような背景による。

もともと、印場地域は村の成立が古く神社の成立も古い。

渋川天神(現 渋川神社)が式内社であることは、いうまでもなく、社家もまた存在している。

ことによると宮座か、あるいはそれぞれの家門の代表者によって維持された時代があるのかもしれない。

いずれにしても棒の手成立以前から定められた神祭りの儀式があり、厳重な精進潔斎がもとめられ、

湯立神楽や、こんにち風流と称される芸ごと(たとえば歌舞など)が神にささげられる伝統が

すでに成立していたことだろう。

神ごとから神人和楽といった傾向が生まれると、

神にささげる芸ごとも人々の法楽という形に変化する傾向となる。

近世に入って出発した棒の手の神社への奉納が伝統化して、

こんにちに至ったのは、このような動きに、うまく対応したからである。

それにしても近世初頭前後に成立した流派武芸の一つである東軍流が、

祭りに加えられるようになったことについては、

修験者である伝寿の村内での地位と指導力の大きさをうかがわせる。

演技は、棒対太刀、棒対棒が主である。

これらの演技は、全て「奥許」の巻や、「おぼえ大横帳」に演技の手順が示されている。

花棒のうちキレモノについては、他の流と同様である。

この流には、本来のものとは別に新しく振付られた花棒がある。これは昭和花棒であって、

見物へのアピールなどから考案されたものであり、迫力を出すには、かなりの力を必要とする。