加藤民吉〜tamikichi katou

安永元年(1772)に瀬戸村で生まれ、文化元年(1804)2月により当時伊万里焼に市場を奪われ苦境にあった郷土の産業を救わんと、熱田奉行律金文左衛門胤臣父子の支援を受け、同郷の天草本渡東向寺住職、天中和尚を頼り、肥後・肥前の磁器製造法を習得し同4年6月に帰国しました。以後更に技術を開発し当地の繁栄に寄与したのです。…文政7年7月4日没 享年53才


加藤民吉は瀬戸の大松窯、窯元加藤吉左衛門の次男として産まれた加藤民吉長男のみに陶業を継がせるという取り決めのために家業の窯業を継げずにいました。
そのために父と一緒に名古屋の熱田において新田開発に従事していたところを尾張藩熱田奉行津金文左衛門の目に留まり、彼の研究していた南京焼と呼ばれる焼き物の研究を手伝うことになりました。この南京焼こそが染付磁器のことだったのです。
そして研究を重ね染付磁器の製造に成功しました。しかしまだ問題点は多く民吉は1804年に一人で九州に旅立ちました。そして苦労をして1807年に瀬戸に帰ってきました。有田焼に遅れること200年。こうして民吉の努力によって瀬戸の染付磁器は急速に進歩し、発展していきました。こうした業績をたたえ、たみきちは瀬戸の磁祖として窯神神社に祀られ、9月の第2土日にはせともの祭りが開催されるようになりました。

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