磁祖 加藤民吉

 

瀬戸の大松窯も窯元加藤吉左衛門の二男として生まれた加藤民吉は、「一子相伝制(長男のみに陶業を継がせる)」という釜屋仲間の取り決めのために、家業の窯業を継げずにいました。そのため、父吉左衛門とともに、名古屋の熱田において新田開発に従事していたところを、尾張藩熱田奉公津金文左衛門の目に留まり、彼の研究していた南京焼きと呼ばれる焼き物の研究を手伝う事になりました。この南京焼きこそ、いわゆる染付磁器のことだったのです。そして享和元年(1801)9月、ついに盃、小皿、箸立て、などの小品ではあるものの染付磁器の製造に成功しました。しかし素地や釉薬など、まだ問題点は多く、肥前のような磁器はやくことができませんでした。このため、享和4年(1804)民吉は、天草東向寺(曹洞宗)の天中和尚(愛知郡菱野村出身)を頼って、一人九州へ旅立ちました。九州に着いてからは、苦労と努力を重ねたと伝えられています。やがて、丸窯や柞灰などの技法を習得した民吉は、文化4年(1807)瀬戸に戻ってきました。有田に遅れること役20年、こうして民吉の帰郷によって伝えられた肥前磁器の製造法のおかげで、瀬戸の染付磁器は急速に進歩し、発展していきました。民吉の死後、文政98月、生前の業績を尊敬して、2代目民吉が、民吉の御霊を「丸窯神」と名づけて追祀している。明治になると、祭礼の執行が民吉家から神祠周辺の西谷部落に引き継がれ「窯神」といえば、磁祖民吉を祭った神社であると考えられるようになった。更に大正5年(1916)からは、今日の瀬戸の繁栄をもたらした民吉の近代窯業の先駆者とあがめ、その営業をたたえると主に、郷土の発展を祈願し、町を上げての祭礼になってきた。昭和39年には、市民の力で登り窯をかたどった社殿が再建された。境内には、磁祖の銅像、瀬戸染付け焼きの大功労者熱田奉公津金文左衛門の顕彰碑がある。


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