「せともの祭の由来」
そもそもは、磁祖・民吉が、磁器染付焼の完成を神に感謝することから遥拝所として建立した窯神社が原点だった。この社は初め、私設の神社だったが彼の死後、養子2代民吉が「丸窯神」と名づけて初代民吉を追祀、これがつまって「窯神」となり、いまいう窯神社となった。3代目になって没落し、同家が祭礼を行えなくなったため、大正五年から瀬戸町全体の祭りとして、毎年9月16日に行うことが決まった。現在では、9月の第2土・日曜日に開催されている。
中興の人・民吉の遺徳をしのぶ気持ちが町を動かしたといわれている。
“せともの祭”の名称は、昭和7年、窯神祭の催物として廉売市が行われるようになってから使われた。昭和7年といえば、世界恐慌の最中。不況にあえいでいた問屋の主人たちが、倉庫の残品の整理を目論んだ。磁祖民吉の顕彰をかねた産業祭とともに残品整理が出来れば一石二鳥。こういうわけで“せともの祭”は発足した。
「あめまつり」
“せともの祭”は一名“雨祭(”ともいう。「なにも台風シーズンの最中に祭をしなくても」という声は地元でもある。はじめ、この日時を設定する時には、問屋筋の意向で9月と決まったが、中旬というには、たまたま、当時の業界の休日が1日と16日であったからに過ぎない。少し前になって、人出の多い第2週の土・日曜日に行われるようになった。
瀬戸では、この雨を台風のせいばかりとは考えない。昔から民吉の現地妻の怨念のせいだとも伝えられてきた。
民吉はうまく九州へ潜入したものの、現地では他国者にその秘法をなかなか伝授してくれない。民吉の心労はたいへんなものだったみ違いない。そこで生まれてくるのが、現地での偽りの結婚。そして秘法をぬすみとったうえで妻子を捨てて逃げ帰るという“ドラマ”である。その一つは、歌舞伎にもなっている。「明暗縁の染付」というタイトルで昭和4年10月、大阪の中座で、中村鴈治郎一座により上演された。
しかし、この話は『瀬戸市史』の中では“ゆがめられた民吉物語”として抗議されている。
参考文献 「瀬戸=土と火の町」 九原常雄 著 日本放送出版協会