瀬戸焼の由来 

瀬戸焼の始まりについてはいろいろな説が存在します。

その中でも有力なのが・・・。

加藤四郎左衛門景正が貞応2年(1223)に永平寺を創建する僧道元に従って入宋し、陶法の修行のあと帰国します。その後製陶に適した土地を探し各地に試し焼きを行った末ついに仁治3年(1242)、瀬戸において良土を発見し窯を築いたのが瀬戸焼の始まりという事です。

 What’s せともの?

せともの”は愛知県瀬戸市を中心に焼いた陶磁器のことで、“瀬戸物”とも書きます。陶磁器というのは、陶器と磁器をひっくるめていっているが、本来両者はモノが違います。陶器を“土もの”、磁器を“石もの”というように、主成分が一方は粘土、一方は陶石であり、この陶器を日本で初めて本格的に焼いたのが瀬戸で、磁器を初めて作ったのが唐津です。陶磁器のことを西日本では“からつもの”といい、東日本では“せともの”といいます。

瀬戸焼の登場が、日本陶磁史のうえで、極めて画期的な事柄として注目をあびるのは、「本格的に人工の釉薬(ゆうやく)を使い、日本ではじめて陶器らしい陶器が登場した」からなのです。

  ヤキモノは、陶器と磁器に大別され、さらに、原料、釉薬の有無、素地の硬さや色あい、吸水性、透明性などから、陶磁器を土器・陶器・たく器・磁器の4種類に分けられます。

  ヤキモノの歴史

ヤキモノは旧石器時代に土器として誕生し、新石器時代、日本では縄文式土器が使われていました。中国やシベリアなど世界各地でも、それぞれの生活(狩猟あるいは農耕)に合う土器が作られていました。そして日本では、農耕文化の中で弥生式土器が作られ、古墳時代には土師器と呼ばれる土器に変化していきました。

中国では、紀元前1500年ごろ高温の火で焼く施釉陶器の技術が誕生し、漢時代には淡青色の青磁が登場し、唐末・五代(9〜10世紀)には素地に陶石(磁石)を使用した磁器が生産されました。その技術は、朝鮮、東南アジアへ伝わり、日本では17世紀初めに九州の肥前地方で生産が始められました。

室町時代には中国から美術工芸品をさかんに輸入し、それらは唐物として珍重されていました。

日本のヤキモノが中国や朝鮮の模倣を脱して日本独特の美意識に目覚めたのは安土桃山時代。その特徴は、左右対称的でなく一見歪んでいても全体として均衡を保っている、不整形であるが優美さも兼ね備えているという点です。

16世紀後半には、瀬戸や美濃の窯で茶人に愛好された「黄瀬戸」や「瀬戸黒」が焼かれました。
その後、瀬戸焼は今も作りつづけられています。

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