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1610年(慶長15年)の清洲越しから、名古屋では新しい城下町建設が始まった。新興都市だったことから自由な発想で出し物が考えられた。 特に1619年(元和5年)につくられた徳川家康を奉る名古屋東照宮の祭礼は、藩の管理のもと城下町をあげて展開され、その中心にからくり人形の乗る山車が位置付けられたのである。藩内の町や村ではそれを祭礼の雛形にしたこともあり、多くの地域へ広まっていった。 また、名古屋城築城以前から三の丸付近にあった三の丸天王社は1610年以後名古屋城の鎮守神として、歴代尾張藩主の庇護を受けている。 三の丸天王社では旧暦6月15日『夏やめ』(湿度の高い時に起こる夏の病を防ぐ)の意で祭礼が行われている。 この三の丸天王祭と若宮八幡・東照宮の祭礼とで名古屋の三大祭と称した。 |
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現在の山車は二代目の二福神車で、初代は静岡県浜北市、宮口で5年程前に発見された。この山車は、静岡県に現存する最も古い山車として注目されている。 この事実は、愛知山車祭り研究会の方が浜北市の山車の天井箱(唐破風)に『下花車』と書いてあることを発見したことから明らかになった。 昔は堀川に船着き場があったので、山車をバラバラにして舟で運んでいったと思われる。(浜北市は近くに天竜川がある) 現在の山車については、『竹筒に町民が金をためて買った』という口伝が残されているが、資料などが無いため実際のところはよくわかっていない。(戦争で焼けたり紛失したと考えられる)なにより山車が戦災をのがれ残っていること自体が奇跡に近いのだ。戦前・戦後の混乱期にはからくり人形を質に入れたという話もある。 <永田哲也氏、水谷和己氏談> |