一、歴史

名古屋祭りとは

山車の歴史

ニ福の歩み

名古屋祭りとは
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1610年(慶長15年)の清洲越しから、名古屋では新しい城下町建設が始まった。新興都市だったことから自由な発想で出し物が考えられた。

特に1619年(元和5年)につくられた徳川家康を奉る名古屋東照宮の祭礼は、藩の管理のもと城下町をあげて展開され、その中心にからくり人形の乗る山車が位置付けられたのである。藩内の町や村ではそれを祭礼の雛形にしたこともあり、多くの地域へ広まっていった。

また、名古屋城築城以前から三の丸付近にあった三の丸天王社は1610年以後名古屋城の鎮守神として、歴代尾張藩主の庇護を受けている。
三の丸天王社では旧暦6月15日『夏やめ』(湿度の高い時に起こる夏の病を防ぐ)の意で祭礼が行われている。

この三の丸天王祭と若宮八幡・東照宮の祭礼とで名古屋の三大祭と称した。


山車の歴史
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名古屋の山車は、徳川家康を祭った東照宮祭に、大八車で人形や飾りを曳きまわしたのが始まりである。 
1652年(承応元年)には雷電車、1656年(明暦2年)に道成寺車ができ、猩々車・湯取車・石引車・梵天車・石橋車・小鍛冶車の順で9輛が揃った。これらの山車は昭和20年頃戦争で焼失するまで多くの人々に愛された。

この二福神車は東照宮祭とは別に、三の丸天王祭に出される『車楽(ダンジリ) 』に笹提灯をささげたことが始まりである。その後大八車に人形や飾りをつけて引くようになり、それが他町との競いなどで山車を作るようになった。そのため山車は見舞車という。

名古屋三大祭には、名古屋城の御門が開けられ、城内にある東照宮・三の丸天王社(現在は城外にへん座された)への参拝が認められて、山車とともに入城することができた。そのため名古屋の山車は御門をくぐるために屋根が上げ下げできるようになっており、名古屋の山車の特色ともなっている。

また、天王祭は旧暦6月15日に行われていたため、各町の天王祭に曵かれている山車は、夜になると三の丸天王社に提灯をささげに続々と集まってきた。
これらの山車は片端(かたは)まで曵き出され、片端筋(現在の外堀通り)に並べていた。そのにぎわいは写真でおわかりいただけると思う。


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二福神車の歩み
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現在の山車は二代目の二福神車で、初代は静岡県浜北市、宮口で5年程前に発見された。この山車は、静岡県に現存する最も古い山車として注目されている。
この事実は、愛知山車祭り研究会の方が浜北市の山車の天井箱(唐破風)に『下花車』と書いてあることを発見したことから明らかになった。

昔は堀川に船着き場があったので、山車をバラバラにして舟で運んでいったと思われる。(浜北市は近くに天竜川がある)
 
現在の山車については、『竹筒に町民が金をためて買った』という口伝が残されているが、資料などが無いため実際のところはよくわかっていない。(戦争で焼けたり紛失したと考えられる)なにより山車が戦災をのがれ残っていること自体が奇跡に近いのだ。戦前・戦後の混乱期にはからくり人形を質に入れたという話もある。

                      <永田哲也氏、水谷和己氏談>