せとものまつりと雨の関係

             瀬戸は昔陶器で産業が成り立っていました。また、九州でも同じころ磁器という新しい手法の器が興り、美しい染付が施去れるようになりました。このころの瀬戸焼きは、技術が低く「薄くて固い焼き物」の有田焼に押され売れ行きが悪かったのです。そこで民吉は奉行である津金文左衛門の援助を得て九州へ  有田焼を学ぶために修行に出かけました。1804年、瀬戸を出発した民吉は、九州各地の窯場で働きながら技  術を学ぼうとしましたが重要な技術は秘密とされなかなか教えてもらうことができませんでした。 

            そうしているうちに当時働いていた窯場の師匠の次女と結婚をすることになりました。そしてついに秘密とされていた念願の技術を教えてもらうことができたのです。民吉は2年間磁器の技術を学んだのです。

       民吉は妻子がいたにもかかわらずその技術を瀬戸に持ち帰るために妻子を置いて瀬戸に帰ってしまいました。

            瀬戸に帰った民吉は、新しい窯を作り九州で学んだ技術を活かして焼き物をつくり有田焼に劣らぬ民吉の、尾張・三河だけでなく上方(京都、大阪)江戸(東京)からもたくさん注文され るようになり瀬戸村は活気を取り戻したのです。

                ある冬のこと…民吉の家へ子供をおんぶした若い母親が訪ねて来ました。それは九州で民吉が結婚した女の人だったのです。

             使用人の男は村人たちにそのことを話すとみな「民吉を連れ戻しに来たに違いない」と思い決して会わせようとはしませんでした。女の人は何度もお願いしましたがその願いは叶えられませんでした。そしてあきらめて、近くの池に身を投じたのです。

    せとものまつりに雨が降るのはその女の人の「恨み」と悲しみの「涙」と言われています。