浜松の屋台は、京都の山鉾、飛騨高山/秩父の屋台や博多山笠などと違って歴史は浅い。遠州地方の横須賀の三熊神社の祢里、掛塚の屋台などに比べても同様である。神事の祭礼にも関係ないことも日本中の屋台とは異なっている。

屋台は山車、曳山、山鉾などいくつかの形式をもっているが、正徳年間(1711)に、京都の八坂神社の祭礼に曳いたのが屋台のはじまりといわれている。神社の祭礼では、必ず御輿が登場する。御輿は神の乗り物であり、神社から移ってきたもので、神社の領内を御輿によって巡行する渡御とも言う。

浜松まつりの御殿屋台は、凧合戦の帰りに大八車の四隅に柱をたてて凧を屋根がわりにして引いていきた。そこに伝馬町の若松座の森三之助丈という役者が、伝馬、千歳町の芸者衆と一緒になって、鐘や太鼓で道囃子ではやしたてた。これが始まりといわれている。その後、大正4年頃から底抜け屋台や花屋台が登場し、藤やしょうぶの花で飾り、歩きながら道囃子を演奏した。その後、お囃子連が屋台に乗るようになり、底抜け屋台が消えていった。昭和初期にいくつかの町により、掛塚式屋台が造られ、重層唐破風入母屋造り、桃山式などの御殿屋台が出現し、みごとな彫刻が施されていった。

 戦災ですべての屋台は焼失したが、浜松っ子のたぎるような情熱は次から次と屋台を復元させていった。
この巡行は、神と領内の住民との精神的交流にとって重要な機会である。同時に住民の生活共同体としての団結や連帯を強める儀式である。
その巡行の前後に各町の山車が練り物やおどりを加えた華やかな附けものとして行われた。
日本の屋台
浜松の屋台
御殿屋台の歴史